「ハンセン病問題を知ることはゴールじゃない」 人権問題に30年取り組んだ小学校教諭が最後に訴えたこと(2024年4月12日『東京新聞』)

 
 ハンセン病問題に無関心だったことを恥じ、小学校教諭として30年にわたり人権学習に取り組んだ佐久間建(けん)さん(64)が今春、定年後の再任用を終え、教壇から降りた。「実態を知ることはゴールではなく、あらゆる人権問題や自分の生き方に広げられる」。国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)で3月、教師生活の締めくくりとして市民を対象に講演し、ハンセン病問題から学ぶことの大切さを訴えた。(石原真樹)
教員としての最後の講演で「資料館や人権の森をつくった人たちの思いを知ってほしい」と訴える佐久間建さん=3月30日、東京都東村山市の国立ハンセン病資料館で

教員としての最後の講演で「資料館や人権の森をつくった人たちの思いを知ってほしい」と訴える佐久間建さん=3月30日、東京都東村山市の国立ハンセン病資料館で

 「過去のものではなく、現在進行形の人権問題。今、学ぶ必要がある」。佐久間さんが講演で呼びかけた。「ハンセン病が分からないという人は、何かあれば差別する側に転じる恐れがある」とも述べた。

◆軽い気持ちで訪れた資料館で…

 問題と関わったのは1993年、国立ハンセン病療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん、東村山市)に近い市立青葉小への赴任がきっかけだった。同年に開館した資料館(当時は高松宮記念ハンセン病資料館)を軽い気持ちで訪れ、隔離生活を強いられた患者や回復者の過酷な人生を知った。「頭を殴られたような衝撃を受けた」
 隔離の根拠となったらい予防法が廃止される2年前の94年、児童にハンセン病を巡る実態を伝えようと、回復者の平沢保治(やすじ)さん(97)に取材し、体験を基に学習教材を作った。
ハンセン病回復者の天野秋一さん(左)を招いての佐久間建さん(右)の授業=2003年、東村山市立野火止小学校で(佐久間さん提供)

ハンセン病回復者の天野秋一さん(左)を招いての佐久間建さん(右)の授業=2003年、東村山市立野火止小学校で(佐久間さん提供)

 学校では国の政策や憲法基本的人権を巡る社会問題として扱い、社会や国語の授業でらい予防法や裁判を取り上げた。回復者たちが後世に記録を残そうと資料を集めて資料館を設立し、全生園に木を植えて「人権の森」をつくった「抵抗体験」を学ぶことを大切にした。自分たちの尊厳を守る姿勢を尊敬したからだ。

◆訴訟終結してもなお残る差別

 異動しても授業を続けたが、時には差別の芽がいまだに摘まれていない現実も目の当たりにした。2003年、回復者が熊本県の黒川温泉で宿泊拒否された。「自分も子どもたちもショックを受けた。より真剣に学習するようになった」と振り返る。19年6月には、家族の差別被害に国の責任を認めたハンセン病家族訴訟が終結。しかし今でも、原告は差別を恐れて名前を出せないでいる。
高松宮記念ハンセン病資料館(当時)で学習する児童ら=2004年、東京都東村山市で(佐久間さん提供)

高松宮記念ハンセン病資料館(当時)で学習する児童ら=2004年、東京都東村山市で(佐久間さん提供)

 全生園では昨年、子どもの入所者が暮らした旧少年少女舎が老朽化で解体された。当時の風景を今に残す木々も伐採された。講演で「全生園が大切にされ、未来に残されるかどうかは市民の努力と意識にかかっている」と強調した。
 4月からは小学校で、不登校の子どもたちへの支援に取り組む。ハンセン病問題には今後も資料館の運営委員として関わっていく。講演の動画は国立ハンセン病資料館のユーチューブで視聴できる。

 ハンセン病問題 「らい菌」による感染症ハンセン病は末梢(まっしょう)神経がまひし、障害が残る恐れがあるが、感染しても発症するのはまれ。患者は療養所への隔離を強制され、治療法確立後も差別や人権侵害が続いた。隔離の根拠の「らい予防法」は1996年に廃止され、2001年に熊本地裁判決が隔離政策を違憲と判断。回復者家族が差別を訴えた家族訴訟でも19年に熊本地裁が国の責任を認めた。