◆沖縄の宝になった男の生き様
「とうとうと流れて平和の海に流れ込んで固まるハワイの溶岩のような頑固さ、ウチナンチューの負けじ魂を体現した人」。下嶋さんは、沖縄人のメンタリティーをハワイの溶岩に例えた太郎自身の言葉を踏まえ、その人柄を言い表した。
下嶋さんは、ハワイから沖縄に食用の豚や衣料品を届ける戦後の救援運動の中心となった太郎を約30年かけて取材してきた。23日の「慰霊の日」を前に、琉球新報での連載を基に「比嘉トーマス太郎―沖縄の宝になった男」(水曜社)を出版した。
芯の通った太郎の人物像が、下嶋さんの著書からも伝わってくる。
◆沖縄で幼少期を過ごし、戻ったハワイで米軍に徴兵され
太郎は沖縄から出稼ぎでハワイに渡った両親のもとに生まれ、幼少期は沖縄の祖父母に預けられた。22歳で東京の電機会社に勤めたが、特高警察に目を付けられて厳しい取り調べに遭い、1940年にハワイに戻り、米軍に徴兵される。
41年12月、火炎と黒煙に覆われた真珠湾を目の当たりにした。日米の開戦だった。日系人部隊の一員として激戦の欧州戦線に出向き、負傷。のちに「あの忌まわしい日本の真珠湾奇襲いらい、アメリカ人でありながら日本系という理由で、公私にわたり差別を強いられてきた」と振り返った。
◆許せなかったのは「奪う」行為だったのでは
下嶋さんは、戦時下の欧州で、食べるために体を売る女性や、家族を失った子どもの姿を見たことが、のちの太郎の行動に影響したとみる。「戦争の根本にある、弱い者から生活や尊厳を『奪う』という行為が、許せなかったのだと思う」
45年4月、太郎は通訳兵として沖縄入りした。「私は隣の中城村の出身です。安心して出てきてください」。沖縄と日本の言葉を使い、住民が隠れる洞窟に投降を呼びかけていたところ、女性に組みつかれた。「奥にうちの娘が二人いる、強姦(ごうかん)しないでください!」
太郎はこうした出来事を「戦禍の沖縄より」と題し、ハワイの日本語新聞に連載。「米兵が捕虜の耳、鼻、手足を切って皆殺しにする。鬼畜米英のデマ教育に染まる避難民は、恐怖一色だった」と報告している。
◆戦後の沖縄救援運動のきっかけに
「眼をふり向ければ全石造のフル(豚小屋)に豚の子一匹も居ない」。沖縄の食文化の象徴である豚が消えたという記事も書き、ハワイの日系人や宗教家を中心とした戦後の沖縄救援運動のきっかけをつくった。
小学校で文具を受け取った児童の1人が、山梨学院大名誉教授の我部政男さん(85)。「ハワイや米国の先輩たちが、郷里が困っていると送ってくれたと先生に聞いた。移民だって豊かではなかったはずだけど、うれしかった。高尚な志だった」と話す。
太平洋戦争中は「敵性外国人」として強制収容されていた米国の日系人。太郎は各地の収容所で日系人部隊の存在について講演し、「人種なんて問題にならない。みな助け合って戦った」と訴えて回った。戦後は、日本人移民の米国籍獲得運動にも尽力した。
下嶋さんは「太郎の呼びかけは、沖縄で言われる『万国津梁(しんりょう)』(世界の架け橋)の思想そのもの。想像力によって、かつて日本人が移民先の国で舐(な)めた差別や苦労を偲(しの)べば、いま日本に来ている外国人労働者に対しても、平然と差別することなどできないはずだ」と話した。
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