終戦の日、憲法公布…「その日」市民は何を思った? 群馬で一市民の日記発見 「感傷も何も…」終戦前後のリアルな感情(2024年6月17日『東京新聞』)

 
 第2次世界大戦末期から終戦直後にかけ、空襲の様子や終戦後の世相などを詳細に記載した日記が群馬県邑楽(おうら)町で見つかった。専門家は「当時の庶民が戦争をどう考えていたかを知る貴重な資料だ」と評価する。(小松田健一)
1946年元日の記述。米軍機の空襲を描いている

1946年元日の記述。米軍機の空襲を描いている

◆1945年1月から約3年、ほぼ毎日記述

故・相場定利さん=相場一利さん提供

故・相場定利さん=相場一利さん提供

 日記を付けていたのは、相場定利さん(1921~92年)。農業を営む旧家に生まれ、群馬県立小泉農業学校(現・県立大泉高校)を卒業後、農協職員を経て邑楽町議、町助役を歴任し、81年から町長を2期8年間務めた。長男の一夫さん(77)が今年2月、自宅離れの押し入れで偶然見つけた。
 日記はわら半紙状の紙に万年筆で記され、45年1月10日から47年12月30日までの約3年間にわたりほぼ毎日記述があり、分量は約260ページにのぼる。

終戦の日は長文 「唯 民族の殺りくであった」

 重大な出来事が起きた日は、それに関する記述もある。45年2月10日、東日本最大の軍用機製造拠点だった中島飛行機(同県太田市、現在のSUBARU)を標的とした群馬県内初の空襲では、旧日本軍戦闘機の迎撃によって2機のB29が邑楽町内へ墜落し、23人の搭乗員全員が死亡した。日記は「手をたたいて萬歳(ばんざい)を叫ぶ しかし相当な被害があったものと思はれる」と記した。空襲はその後も続くが、敗戦を覚悟するような記述は見当たらない。
 終戦を迎えた8月15日は約1100字の長文。明治以降の日本が戦った戦争を列挙し「唯(ただ)民族の殺りくであった」と振り返った。そして「日本民族発展は永遠に終止符を打った。感傷も何もただ空虚な気持」と、率直な心境をつづる。
 他方で、電線に止まったツバメを見て「自然の力の何と偉大なことよ。かの原子爆弾も及ぶまい」と、何げない光景から深い感傷にひたっていた。

◆新憲法への期待「進むべき道が明かに」

日本国憲法が公布された1946年11月3日に感想を記した日記

日本国憲法が公布された1946年11月3日に感想を記した日記

 46年元日は、爆弾を落とす航空機の絵を描き、1人の人物が「侵略ノ夢サメテ冷厳ナ現実ハ彼ノ偉大ナルB29ノ爆弾ニヨツテ滅サレタ」とつぶやいた。敗戦から半年もたたないうちに、日本の戦争は侵略だったとの認識が一般的となったことがうかがえる。
 日本国憲法が公布された同年11月3日は「新憲法の発布もあり愈々(いよいよ)敗戦日本もその進むべき道が明かに示されてきた」と、新生日本への期待を寄せた。
 一夫さんによると、定利さんは運動が得意だったが、脊髄の病気を患ったため徴兵されなかった。日記の感想を「筆まめだった父らしさが伝わってきた。8月15日は解放感と虚無感の双方に包まれ、これからどうすればいいかを考えていたのだろう。後世に伝えるべき資料だと思う」と話し、博物館などへの寄贈を検討しているという。
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◆検閲を受けない、偽りのない市民の認識

 群馬県太田市在住の戦史研究者で、同市立新田荘歴史資料館学芸員の前沢哲也さんの話
 書き手が上級学校の農業学校を卒業しているためか、語彙(ごい)に高い知識水準を感じる。日記は第三者に読まれることを前提とせず、検閲も受けないので、偽りのない心情が書かれていることが多い。内容は当時の日本人が、戦争をどのようにとらえていたかがよく分かる。
 何回も空襲を受けながら日本の勝利を信じていた点などは現代の日本人は理解できないだろうが、これが一般的な認識だった。終戦の日に降雨があったなど、気象を記録した点も戦中は天気予報が禁止されていたので特に貴重だ。