戦時中に空襲を避けるための学童疎開が本格化してから、来月で80年となります。上皇さまは、28日、ご自身が疎開生活を送った栃木県日光市を上皇后さまとともに訪ね、当時暮らした建物などをご覧になりました。
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上皇さまの疎開とは
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軍の武装解除など日本占領に向けた動きが強まる中で、軍の一部には若き皇太子を擁して徹底抗戦しようという不穏な動きもありました。
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学友「命懸けの疎開生活」
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上皇さまの学習院時代の同級生で、ともに疎開生活を送った明石元紹さんは、戦局の悪化を受けて沼津から日光に移った当時を振り返って、「学習院も当時の政府も、考えることは『皇太子殿下の安全』です。沼津の外洋にアメリカの潜水艦が来ているということがわかって、ここに置いておくわけにはいかないとなった。日光は景色はいいけど、親から離されたことに私たちは大変ショックを受け、みんな悲しがっていた」と話しました。
そのうえで、「それでも、当時東京の子どもたちは多くが焼け出されていたので、そうした勉強ができない環境にいる子どもと比べれば、われわれは幸せだったと思う。一緒に日光田母沢御用邸で勉強していた頃、半分くらいの子どもたちの家は焼けてしまっていた」と語りました。
さらに、奥日光に移ってからの疎開生活を振り返り、「われわれと一緒に食事する時は上皇さまも白いごはんは食べられずおかずも極めてプアーなものしかなかった。この頃は、B29が遠くを飛んでいて、空襲警報も多かったし、防空ごうに入ることも何度もありました。1回だけ戦闘機が襲ってきて、非常に近く向かってきたので、みんなで『防空ごうに入れ』と言って飛び込んだ。本当に命懸けで過ごした日光なんですよ」と話していました。
日光田母沢御用邸での疎開
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敷地内には防空ごうもありました。
上皇さまは、戦後博物館や宿泊施設などとして利用されていたこの場所を、平成8年の夏に上皇后さまや長女の黒田清子さんとともに訪ね、かつての勉強部屋で「ここで勉強したんですよ」などと懐かしそうに話されていました。
上皇さまは、5か月後の記者会見で、この時のことを振り返りって、「私自身の印象に残っていることとしましては、51年ぶりに、疎開の時1年間を過ごした日光の旧田母沢御用邸の部屋を見たことです。庭の一部は、東大の植物園に移管されていますが、御用邸も庭も昔の姿がよく保存されていました。御用邸から近くの紅葉した山々や、遠くにそびえる女峰山や、その他の山々を見て過ごした当時のことは忘れられません」と話されていました。
思い出のイチイの木
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日光田母沢御用邸に疎開していた当時庭に大きなイチイの木があったことを覚えていた上皇さまは、平成8年に訪問した際その場所を確認されましたが、「思い出の木」はすでになくなっていました。
日光田母沢御用邸記念公園の専門職の大内信久さんによりますと、その後切り株が見つかり、かつての御用邸が公園として整備され一般に公開された翌年の平成13年に再び訪問した際、上皇ご夫妻が庭にイチイの木を植樹されました。
大内さんは、「同じ場所に同じ木を植えたらいかがですかという上皇后さまの提案でおふたりでお手植えされました。成長が遅い木なのでなかなか大きくなりませんが、こうしたエピソードがある木なので、ずっと見守っていただきたいです」と話していました。
ようやく実現した記憶をたどられる旅
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