日本ラグビー界を押し上げた小さな巨人・田中史朗が引退 「反骨心でやってきた」世界最高峰リーグにも挑戦(2024年4月254日『東京新聞』)

 ラグビーの元日本代表でワールドカップ(W杯)3大会に出場した39歳のSH田中史朗東葛)が24日、今季限りでの現役引退を表明した。京都府出身で、京都・伏見工高(現京都工学院高)、京産大から三洋電機(現埼玉)入り。その後キヤノン(現横浜)を経て現所属。日本代表では2008年に初キャップを獲得した。
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ラグビーW杯ニュージーランド大会の壮行会で笑顔を浮かべる田中史朗(前列左から2人目)=2011年8月撮影
◆ハグで出迎えられた「プリティーベビー」
 2011年9月17日。W杯ニュージーランド大会に参戦中の日本代表は、練習で訪れていた同国北部の街ケリケリで地元の歓迎を受けた。現地の人々にとっても大柄な一団にあって、身長166センチの丸刈り頭は、自身の祖母ぐらいの女性から「プリティーベビー」と覆いかぶさるようなハグで出迎えられた。
 この時、少年のような顔つきではにかんでいた青年こそ、当時26歳の田中だった。
 愛らしい容姿とは裏腹に、「ベビーアサシン(小さな暗殺者)」とも呼ばれた。気迫をむき出しにし、相手が時間稼ぎでボールを渡さなければ、突き飛ばしてでも奪いにいく。「体が小さいので反骨心でやってきた」。パスの職人であるSHとして積み上げた代表キャップ75は歴代7位。同ポジションでは1位だ。
◆眠るときもボールを抱いて
 テレビドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルになった伏見工高で腕を磨いた。眠るときもボールを抱くほど夢中になり、夏合宿では夜明け前に起きて自主練習することも。京産大時代は練習に不満を募らせ、監督室に単身で乗り込んだ。全ては「ラグビーがうまくなりたかったから」。
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サプライズで登場した日本代表の後輩・松島(左)と松田(右)から花束を受け取る田中(中央)
 輝かしい功績の一つが、日本人初となる世界最高峰リーグ「スーパーラグビー(SR)」への挑戦だろう。
 当時弱小の極東の島国から12年に、ハイランダーズ(ニュージーランド)へ加入。翌13年2月にデビューした。「日本人の可能性を示したい」と屈強な選手にタックルで突き刺さったかと思えば、巧みなパスワークで翻弄(ほんろう)。着実に実績を築き、15年には初優勝に貢献した。
◆1分け3敗のW杯「何も覚えていない」
 海外に挑んだきっかけが、あの11年だ。自身初のW杯は1分け3敗に終わり「何も覚えていない」。閑散とした帰国の空港で失意に沈んだ。その後SRでの修業を経て15年W杯で南アフリカを倒す大金星を挙げ、19年W杯では初の8強入り。大会後に挙行された東京・丸の内でのパレードには約5万人が殺到し、その光景に人目も気にせず涙した。ケリケリの時と変わらない、少年のような顔つきで。
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現役引退を発表した田中史朗
 キック前のポーズで人気を博した五郎丸歩や「笑わない男」こと稲垣啓太ら、名実ともに知られるラガーマンは増えた。ただ体格で海外勢に見劣りしない彼らと違い、田中は日本人でも小柄。それでも世界と渡り合い、日本ラグビーの地位を押し上げた。未来を担う若手に、目に見える形で手本と夢をもたらした。
 「ほんまに負けるのが嫌」という信念で駆け抜けた現役生活。まさに、不屈の人だった。(対比地貴浩)