是枝裕和監督 初監督映画の撮影で訪れた輪島朝市、おばあちゃんたちの元気な声が忘れられない(2024年4月1日『東京新聞』)

 
 地震で被災した能登半島ゆかりの著名人からのメッセージを随時掲載します。今回は、映画監督の是枝裕和が、初監督映画「幻の光」で輪島朝市などを撮影した時の思い出を語りました。
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◆とにかく寒かった冬の撮影で温かいおみそ汁

 映画で今すぐに何かできるわけではありません。今はこうやって、「あの時はお世話になりました」とか「復興を願っています」と、表に出て言うことしかできない。でも、そういうまなざしを送るだけでも、被災地の人たちに忘れていないと伝えられるんじゃないかな、と思います。
 
能登半島地震の被災地への思いを語る是枝裕和監督

能登半島地震の被災地への思いを語る是枝裕和監督

 能登にはテレビのロケで行きましたが、映画の初監督作「幻の光」のシナリオ作りのための取材や撮影でも輪島市を訪れました。1993年ごろです。原作は曽々木の方が舞台だったのですが、その頃には観光地化していて。日本海沿いのひなびた街という原作の世界観を探してたどり着いたのが、同じ市内の鵜入(うにゅう)でした。
 主人公たちが住む家は空き家を使わせてもらいました。もともと平屋だったのを、地元の大工さんが2階を造ってくれたんです。撮影は冬で、とにかく寒かった。地元の方々が炊き出しをしてくれて、温かいおみそ汁がありがたかったです。とても親切にしてもらいました。
 映画には輪島朝市も出てきます。火災が起きたと知って、すぐにあの風景が浮かびました。おばあちゃんたちの元気な声が聞こえていたのが印象に残っています。あそこまで全部なくなってしまったのは衝撃でした。

◆被災した方々の声、メディアはもっと拾って

 長年仕事をしていると、撮影した場所がなくなったり、人がいなくなってしまったり、風景も人も作品にしか残らないことが増えていく。当時あった鉄道や駅もそう。それを映像に残すことが映画の目的ではないけれども、あの頃の姿を作品に留(とど)めておくことができたという気持ちもあります。
 いずれ落ち着いたら、映像を介して何かできたらと考えています。東日本大震災が起きた後には、子どもたちにカメラで好きなものを撮ってもらいました。でも、まずは僕がメッセージを送るより、被災した方々の声をもっと聞きたい。こういうときこそ、メディアも真価が問われています。被災者の皆さんが声を上げづらいなら、メディアがその声を拾ってほしいです。

 是枝裕和(これえだ・ひろかず) 1962年、東京都生まれ。制作プロダクションのテレビマンユニオンを経て独立。初監督作品「幻の光」(95年)は石川県輪島市で撮影した。愛する人を失い、能登に後妻として嫁いだ女性の心情を描き、ベネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞を受賞。代表作に「誰も知らない」(2004年)、「万引き家族」(18年)など。