不安の中で聞いた天の声「気ぃつけや」 江崎社長が無事に帰宅しても脅迫は続いていた(2024年3月17日『産経新聞』)

グリコ・森永事件の携帯手配書。犯人グループの一員とされる「キツネ目の男」だが、逮捕には至らなかった
「劇場犯罪」として昭和の日本を揺るがしたグリコ・森永事件は3月18日で発生40年となります。サイト「MSN産経ニュースwest」に平成23年10月から掲載された連載「関西事件史」から、グリコ・森永事件に関する5本をアーカイブ公開します。肩書、年齢、名称などは掲載当時のままです。

不安一色だった心に、ほんのわずかだけれど一筋の希望が灯った。その時、そんな気持ちになったことを、今も覚えている。

昭和59年4月3日午後8時すぎ。西宮市役所の真向かいにある、 産経新聞阪神支局。その阪神支局2階の営業・販売の部屋から、ある刑事の自宅に電話を入れた時のことである。

「わしは別の事件の関係で、西宮署に出入りすることが多い。だから、グリコの 帳場(捜査本部)の様子も少しはわかる。気ぃつけや。最近、変な動きになっとるで…」

江崎グリコ(本社・大阪市西淀川区)の江崎勝久(えざき かつひさ、1941年(昭和16年)8月27日~ )社長(現会長)が3月18日夜に西宮市二見町の自宅2階の浴室から誘拐され、監禁先の茨木市の水防倉庫から脱出して無事保護されたのが3月21日夕。その時点で報道協定が解除され、それから連日、熾烈(しれつ)な報道合戦が繰り広げられていた。

江崎社長は当時、42歳。牡蠣(かき)に含まれるグリコーゲンにヒントを得て江崎グリコを創業した江崎利一の孫である。その創業者一族の若き経営者の身を突然、悲劇が襲ったのだから、報道が過熱するのも無理からぬ面があった。

私もグリコ事件の取材班に入った。大阪の曽根崎署担当だったが、発生当夜に江崎邸にかけつけたこともあり、そのまま「兵庫県警担当」になった。

実は、その6カ月前(58年9月末)まで神戸支局勤務で、兵庫県警を担当していた。古巣に戻って取材しろ、というわけである。当然、捜査本部の取材がメーンとなり、捜査員の自宅への夜討ち朝駆けの日々が始まった。

しかし、捜査員の自宅に夜討ちに行ってもなかなか接触できない。朝駆けでは、六甲の山々から飛び始めたスギの花粉に苦しめられるばかりだった。

「捜査線上に犯人が浮かんでいるのではないか」

その一点が取材の眼目なのだが、情報が取れない。だから、「不安一色」だったのである。そんな時の冒頭の刑事の言葉は、「天の声」にも思えた。刑事は、西宮署に出入りする中で、捜査本部に近い部屋にも足を運ぶことが多かった。専従捜査員の動きや、捜査本部の雰囲気を感じとれる、というのだ。

「ほんまに変な動きや。江崎邸の警備が厳しくなっとる・・・」

天の声は会話の後、こう続けたのである。受話器を置いた。

臨戦態勢だった江崎邸

その夜、私の夜回り用のタクシーは捜査員の家には向かわなかった。「江崎邸が変だ」という情報を神戸支局の片山雅文らに伝えて、江崎邸に向かった。

片山は、現在の大阪編集局長兼大阪代表補佐である。当時は産経新聞に入社してまる2年を迎えるころで、いわゆる駆け出しの時代だった。ニックネームは「合点のカタ(片山)」。とにかく腰が軽かった。「事件発生や、現場に走れ」とデスクに言われると「合点です」といって、支局2階の編集室から勢いよく、階段を駆け下りる。そこまではいいのだが、数秒後、イガグリ頭をかきながら、「あの、現場はどこでしたっけ…」。茶目っ気たっぷりの人気者でもあった。

さて、江崎邸。邸内の様子を知るために、表門ではなく裏側に回った。裏側は雑草がひしめく草原(くさはら)になっており、その雑草越しに邸宅を観察した。20メートルほど離れた遠目からなので、窓に映るシルエットぐらいしか情報としてはない。

グリコの江崎勝久社長が無事に保護された後も、警備が続けられた江崎邸=兵庫県西宮市

無事保護されてから、2週間が過ぎている。江崎社長への警察の事情聴取は、連日行われていた。それでも夜も9時を過ぎれば、一家団欒(だんらん)の時だろう。もし、事情聴取が江崎邸で行われていたとしても、刑事は帰るのが常識だ。

シルエットは、その常識を覆すような数で動いていた。表門にも警備車両が張り付いている。江崎社長が保護された直後から、ずっと徹夜体制らしい。

(まるで、今にも3人組が再び襲撃してくるかのような備えだ・・・)

現場百回などとよくいわれるが、この時、事件の原点である誘拐現場の江崎邸は、確かに何かを物語っていた。それでも、それが何かは、その時点では、私の頭の中で「輪郭」にまでは、ならなかった。

翌日から、江崎邸を中心にした周辺取材を進めた。

「これや、これが核心や」

私たちは、取材の中で初めて核心をついたと思える情報を手にした。捜査本部が、江崎邸で、電話の逆探知をしているというのだ。

犯人グループが、江崎社長を「再脅迫」しているのではないか。脅迫の中身は何か。逆探知はできたのか。とにかく、江崎邸は、犯人との攻防の臨戦態勢にある。そんな輪郭が見えてきた。

その後、どんな取材をしたかは、取材源の秘匿もあるので詳細には伝えられないが、取材班の総力で4月5日付の産経新聞朝刊1面にスクープが載った。

誘拐犯が脅迫電話? おびえる江崎氏 警備強化 逆探知を再開

誘拐事件は、現在進行形だったのである。

難しかった「筋読み」

筋読みは普通だったら、次のようなものだろう。

〈社長を警察に保護されてしまった。身代金もとれなかった。社長には、こちらの顔や声も知られてしまった。失敗だ。逃げるしかない〉

ところが、グリコ事件の犯人グループは違った。執拗に身代金をとろうとしている。警察の大捜査網も意に介せず、挑戦的に犯行を続けてきた。

ふてぶてしい。大胆といっていい。これまでの誘拐事件のシナリオとは、明らかに違うことが、産経新聞の記事によって公知の事実になったのだ。

グリコ・森永事件の犯人グループが送った「犯行終結宣言」

犯人グループの動きは、翌昭和60年8月12日朝の「犯行終結宣言」まで続いた。

くいもんの 会社 いびるの もお やめや

こんな終結宣言が届いた夕刻に、御巣鷹(おすたか)の尾根で、あの日航ジャンボ機墜落事故が起きたのだった。終結宣言までの1年半の間に、多くのスクープが各社から生まれた。社長誘拐から6カ月目の59年9月に報じられた毎日新聞の「今度は森永製菓を脅迫」は、その最たるものだろう。

グリコへの脅迫について犯人グループは6月26日にいったん、犯行終結宣言を出していた。

江崎グリコ ゆるしたる

この時、私たちにも「事件は終息したかもしれない」との思いがあった。そんな時に、犯人がひそかに森永製菓を標的にしていた、という事実をスクープしたのだから世の中は揺れた。

しかし、今、冷静に考えると、「最初に事件の構図を突いたのは産経新聞ではなかったか」と思えてくる。「誘拐犯が脅迫電話?」のあの記事(59年4月5日付)である。

誰もが、「あとは犯人を追い詰め、逮捕するだけ」と思っていたのに、当の犯人が不敵にも身代金を再度要求して動いていた。終息とみせかけて犯行を続けていた手口は、「森永製菓脅迫」と同一構図といっていい。

「事件の筋読み」を根本から見直す転機となるべき、節目の記事だった。そのことにもっと深く思いを巡らせていれば、その後の犯人グループの不可解な手口も、もっと簡単に解きほぐすことができたかもしれない。

さて、天の声の続きである。「江崎邸厳戒」で緊迫する中、さらに事態は動いていた。犯人グループは、4月8日を指定日にした身代金受け渡し要求の脅迫状を、江崎邸に送りつけていたのだ。

「気ぃつけや。帳場の動きが変やで・・・」

何も知らない私に、再び天の声がこうつぶや いたのは、Xデー (4月8日)の2日前のことだった。(平田篤州)

グリコ・森永事件(警察庁指定114号)

昭和59(1984)年3月18日夜、江崎勝久・江崎グリコ社長が兵庫県西宮市の自宅から入浴中に拉致され、現金10億円と金塊100キロを要求された誘拐事件が発端。江崎社長は約65時間後に大阪府茨木市内の水防倉庫から自力で脱出したが、グリコ本社(大阪市西淀川区)の施設が放火されるなど犯行はエスカレートした。

犯人グループはその後も同年6月に丸大食品、9月に森永製菓、11月にはハウス食品などを次々と脅迫。同年10月には兵庫など4府県で、翌60年2月には東京と愛知で、スーパーなどに「どくいり きけん」などのメモを張った青酸菓子をばらまいた。

この間、「かい人21面相」を名乗る犯人グループから計144通もの挑戦状や脅迫状がマスコミなどに届いたが、同年8月、「くいもんの会社 いびるの もおやめや」と「終結宣言」を出して動きを止めた。

警察当局は6都府県警で延べ約130万1000人の捜査員を投入。約600点もの遺留品捜査を行う一方、捜査員が目撃した「キツネ目の男」や青酸菓子ばらまきで防犯カメラがとらえた「ビデオの男」などを公開したが、平成12(2000)年2月までに計28件の事件すべてが時効となった。