お水送りと奈良 古都との絆見つめ直そう(2024年3月8日『福井新聞』-「論説」)

 小浜市の山あいの谷を流れる遠敷川に白装束の僧侶の筒から御香水(おこうずい)が注がれる。幻想的な送水神事の光景が織りなす伝統行事「お水送り」が2日終わった。御香水は奈良・東大寺二月堂の「若狭井」に届くといわれ、奈良と若狭の結びつきを強く印象付ける伝統行事だろう。若狭は京との結びつきが強いといわれるが、平城京があった奈良とも古来強い結びつきがある。いにしえから続く古都との絆を見つめ直したい。

 お水送りの送水神事の始まりは不明だが、起源として知られているのが12世紀の「東大寺要録」だろう。書かれているのはこんな話だ。二月堂創建時の法会(ほうえ)「修二会(しゅにえ)」で、実忠(じっちゅう)和尚が諸国の神々を招いた。しかし漁に夢中で遅れた若狭の「遠敷明神」が、若狭の水を献じようと約束。二月堂前の岩盤に穴を開け、2羽の鵜(う)が飛び出し香水があふれ出したという内容だ。

 鵜の瀬の水が東大寺の修二会で使われる伝承は、江戸時代の史料「若州管内社寺由緒記」などの記述から、少なくとも江戸時代初期には成立していたともいわれている。しかしなぜ若狭の水を送るようになったのか。若狭の水を神聖なものとしてみていたのかについて明確な史料はなく謎に包まれている。

 奈良と若狭の深いつながりは、複数のものからうかがえる。お水送りが行われる小浜市若狭神宮寺の境内からは、2005年に平城宮で使われていたものに酷似した瓦が出土した。瓦の文様が、平城宮跡から出土した瓦のものと似ていることから、つながりが深いことが推察されている。

 食が奈良の都に運ばれていたことも平城京から出土した多数の木簡が示している。木簡は都に運ばれる品物に荷札として付けられていた。若狭国からは塩や海産物が平城京に納められ、特に塩の木簡数は全国最多を占めた。

 また、若狭からは天皇の食膳にささげられた「御贄(みにえ)」として、さまざまな魚介類も運ばれている。若狭は天皇家に食材を供給する「御食国(みけつくに)」として位置づけられ、それは現代の小浜市の「食のまちづくり」にも受け継がれている。これだけ密な関係が古来あることから、お水送りの若狭の水を奈良の都が重視したとしても不思議ではないだろう。

 神秘性に満ちた小浜から導かれた水が12日深夜、二月堂でくみ上げられる。奈良期から絶えることなく連綿と引き継がれ、1273回目のお水取りが今年も春の訪れを奈良にもたらす。いま一度若狭との密接な歴史を考える機会にしたい。