ビキニ事件70年に関する社説・コラム(2024年3月1日)

ビキニ事件70年(2024年3月1日『高知新聞』-「小社会」)

 

 20世紀の米国を代表する画家の1人にベン・シャーン(1898~1969年)がいる。世の不正や不条理をテーマにした作品で知られ、創作のため日本にも訪れている。

 日本の美術館でも時折、企画展が開かれるが、残念ながら小欄はまだじかに作品を目にしていない。ただ没後数十年がたってから、日本で絵本が出版され、手にしたことがある。「ここが家だ―ベン・シャーン第五福竜丸」。

 遺作にあの水爆実験と第五福竜丸の関連作がたくさんあり、米国の詩人アーサー・ビナードさんが文を付けてまとめた。重い問題を力強い絵と流れるような文で分かりやすく表現している。

 悲劇を語り継がなければ―。絵本には強い意思がにじむ。亡くなった乗組員、久保山愛吉さんが元気なころを想像したのだろう。子どもを抱いた絵がある。それが一転、病床のページに。「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」。久保山さんの訴えも記した。

 米国が南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で、第五福竜丸や高知の漁船などが被ばくした「ビキニ事件」。きょうで70年になる。広島、長崎の被爆者も含め、これまで世界中の人々が核廃絶を訴えてきたが、いまだ実現していない。

 せめてもの救いは、人類が核によって絶滅していないことだろう。「使用を断固許さない市民の意識によるところが大きい」とビナードさん。引き続き、わたしたちの使命である。

ビキニ被ばく70年 日本主導で核兵器廃絶を(2024年3月1日『琉球新報』-「社説」)

 核の恐怖を歴史に刻み、今もその恐怖と向き合っている国だからこそ、なすべきことがある。そのことを再確認する日としたい。

 太平洋のビキニ環礁で米国が実施した水爆実験で静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被ばくし、無線長の久保山愛吉さんが亡くなった第五福竜丸事件から、きょうで70年となった。
 広島、長崎への原爆投下とともに私たちは第五福竜丸事件を語り継ぎながら、核兵器廃絶を訴え続けなければならない。被爆国であり、核実験による深刻な被ばく被害を知る日本は、核廃絶の役割を積極的に果たすべきである。
 忘れてはならないのが、沖縄もビキニ核実験とは無関係ではないということである。1988年の沖縄県原水協・平和委員会の調査で沖縄の漁船2隻の乗組員68人が被ばくした可能性があることが分かっている。放射性物質を含む雨が沖縄にも降った可能性も指摘されている。米統治下にあった沖縄で十分な調査はなされなかった。改めて検証が求められる。
 同時に第五福竜丸以外の被ばくした日本全国の漁船の検証も必要である。
 厚生労働省は事件から60年後の2014年、ようやく周辺海域で操業していた延べ556隻の被ばく状況の検査結果などを公表した。翌年には被ばく状況を評価する研究班を設置した。船員や遺族らが国家賠償や船員保険適用を求める訴訟も起きている。
 第五福竜丸に関しても、乗組員の生殖機能の一時的な低下について日米両国の関係機関が「機密扱い」とし、乗組員にも伝えていなかったことが分かっている。国民の反核感情や米国の軍事政策への影響を避けたとみられる。
 これらの経緯を見ても、ビキニ実験と第五福竜丸など日本漁船の被ばくは過去の事件として済ませることができない。これからも検証と事実関係の公開が求められている。
 日本の原子力政策も再検討の時期に来ている。
 事件前年の1953年、アイゼンハワー米大統領は核開発競争激化を背景に「原子力の平和利用」に関する宣言を打ち出し、発電など原子力の活用が進んだ。日本学術会議は54年、核の軍事利用を拒否するとともに原子力研究における「公開・民主・自主」を打ち出した。この3原則は原子力基本法に反映された。
 現在、ウクライナに侵攻したロシアが核兵器使用をちらつかせるなど核戦争の危機が続いている。原発に関してはスリーマイル島チェルノブイリ、福島第1原発の重大事故にみるように「原子力の平和利用」は曲がり角にある。日本の原子力政策も3原則に忠実だったとは言いがたい。
 核は人類の幸福につながるのかという根源的な問いに向き合わなければならない。その上で核兵器の廃絶を主導し、脱原発のエネルギー政策を目指すのが日本の役目だ。

 

(2024年3月1日『しんぶん赤旗』-「潮流」)

 

 「げんきで、おとうちゃんのかへりを、まって居なさい」。病床から幼い3人の娘にあてた手紙からは、こまやかな気づかいとともに、やさしく子煩悩な父親の姿が浮かんできます

▼焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」の無線長だった久保山愛吉さん。核の「死の灰」を浴びて、40歳の生涯を閉じました。端正な字でつづられた家族への思いのなかには、放射能汚染を心配したのか「雨に濡(ぬ)れないように」とも

▼太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が行った水爆実験によって、島民や日本の漁船員らが被ばくした「ビキニ事件」からきょうで70年。焼津市の歴史民俗資料館では特別展が開かれ、久保山さんの手紙や「死の灰」が展示されています

▼被災した船員らの無念の怒りは今も。いまだに日米の政府によって被災の全容は隠され、調査も謝罪も救済もないまま放置されています。「70年間、国に見捨てられてきた」と訴え、補償を求めるたたかいも続いています

▼ビキニ事件によって燎原(りょうげん)の火のようにひろがった原水爆禁止の署名。それは世界の反核平和運動を大きく前進させ、核兵器禁止条約へとつながっています。「こうした草の根の市民運動が次の世代を動かす力になる」。杉並区長の岸本聡子さんは原水協の3・1ビキニデー全国集会にそんなメッセージを寄せました

▼久保山さんは残した手記のなかで「とにかく私は平和を愛する」と。いままた戦争や核の脅威がひろまるなか、ふたたび核なき世界への運動を巻き起す決意を新たに。