「家の事は口外するな」口閉ざした元漁船員 44年後の真相(2024年2月29日『毎日新聞』)

父、大黒藤兵衛さんのアルバムを見返しながら思い出を語る下本節子さん=高知市で2024年2月22日午後4時39分、郡悠介撮影
父、大黒藤兵衛さんのアルバムを見返しながら思い出を語る下本節子さん=高知市で2024年2月22日午後4時39分、郡悠介撮影

 子どもの頃、漁船員だった父の下、親からは家のことを口外しないよう、強くクギを刺されていた。事の真相がようやく分かったのは父の死後。身内に尋ねるなどして父が生前に置かれていた厳しい実情を知り、救済を求める訴訟も起こした。心身に重い負担を強いられた父ら元漁船員たちの思いを現地で訴えたいと、3月1日、遠く太平洋マーシャル諸島に初めて赴く。

 仕事で外に出ているか、家で一人碁を打っているか――。高知市の下本(しももと)節子さん(73)が覚えている父は寡黙で、あまり会話した記憶がない。

 父、大黒(おおぐろ)藤兵衛(とうべえ)さんは、高知県室戸市のマグロ漁船「第七大丸(だいまる)」で無線士を務めていた。遠洋漁業のため、1度漁に出れば2カ月ぐらいは戻らず、家にいることは少なかった。

初めて知った被ばく

マグロ漁船の無線士だった大黒藤兵衛さん。船員手帳に貼られていた27歳の頃とみられる写真=下本節子さん提供
マグロ漁船の無線士だった大黒藤兵衛さん。船員手帳に貼られていた27歳の頃とみられる写真=下本節子さん提供

 漁船員としての生活は突然終わりを告げる。下本さんが小学生だった1960年、父は船を下り、室戸にある無線局に転職した。理由は何も聞かされなかったが、それでも母からは「家で聞いたことは外で話すな」と念を押され、子供心ながら漠然とした不安を感じた。

 事のいきさつが分かったのは44年後の2004年、報道などがきっかけだった。54年3月、マーシャル諸島ビキニ環礁周辺で、父が乗っていた漁船が操業中、米国の水爆実験で被ばくしたことを初めて知った。

 父をよく知る母方の叔母に話を聞くと、「(大黒さんは)よく『自分はがんになるから、保険をかけないかん』とおびえていた」と教えてくれた。父は60歳の頃、胃がんと診断され、胃の4分の3を摘出する手術を受けていた。晩年、胆管がんと診断され、02年3月、78歳で亡くなった。

救済求め裁判も

マグロ漁船の無線士だった大黒藤兵衛さんの船員手帳。右ページには船を下りた理由として「病気のため」と書かれている=高知市で2024年2月22日午後4時49分、郡悠介撮影
マグロ漁船の無線士だった大黒藤兵衛さんの船員手帳。右ページには船を下りた理由として「病気のため」と書かれている=高知市で2024年2月22日午後4時49分、郡悠介撮影

 遺品からは父の船員手帳も見つかった。手帳には、下船の理由について「病気のため」とだけ書かれていた。下本さんは「被ばくとの関係は不明だが、父は船を下りる頃には乱視や歯槽のうろうなどを抱えていたと母らから聞いた」と明かす。

 高知の元船員や下本さんを含む遺族ら45人は16年、国家賠償を求めて提訴した。ビキニ水爆実験を巡り、静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」以外の被ばく実態は、国が14年に延べ556隻の被ばく検査記録を開示するまで明らかにされず、救済の機会が奪われたなどと主張した。

 請求は棄却されたが、判決では、元船員らの被ばくを認め、国会や政府に救済を検討するよう促した。元船員らは20年、救済などを求める新たな訴訟を起こし、下本さんは原告団長を務めている。「国は船員たちが受けた被害をなかったことにして事態を矮小(わいしょう)化しようとした。それが今も続いている」と批判する。

マーシャル諸島追悼式典へ

 水爆実験から70年を迎える3月1日、マーシャル諸島の首都マジュロでは、被ばくした島民らが参加して追悼式典が開かれる。下本さんは今回、原水爆禁止日本協議会原水協)から打診を受け、式典に初めて出席する。スピーチの機会も設けられ、元船員たちの思いや被害者の救済、核の危険性を訴えるつもりだ。

 下本さんは「今回、マーシャル諸島のことを学び、現地の人たちも被ばくで大変な思いをしていることを初めて詳しく知った。思いを共有し、交流を続けたい」と願う。【郡悠介】

ビキニ事件

 1954年3~5月、太平洋中西部のビキニ環礁などで米国が行った6回の水爆実験。3月1日の初回で第五福竜丸の乗組員23人が放射性降下物(死の灰)を浴びて被ばくし、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が死亡した。日本社会にも衝撃を与え、原水爆禁止運動が広がる契機となった。日本の遠洋漁船が付近に多数出漁中で、被害は延べ約1000隻に上るとされる。