週のはじめに考える ガードレールは頑丈か(2024年2月25日『東京新聞』-「社説」)

英人気歌手アデルさんの『アイ・ドリンク・ワイン』という曲にこんな一節があります。<この狂った時代に、何かしがみつけるものをみつけたい。だって、内実のあるもの、本当のもの、真実だと感じられる何かが、私の人生には必要だから>
 基本的にはラブソングのようですし、その歌詞に「フェイク(虚偽)」が横行し、これだけは真実だとしがみつける確かなものが失われつつある現代社会への不安が投影されている、と言ったら穿(うが)ち過ぎかもしれません。


◆機能した米司法システム

 でも何となく、トランプ前米大統領が、現在に至るまで体現し続けている「ポスト真実(トゥルース)の政治」を連想するのです。事実や客観的データなどお構いなし、個人の感情や思い込みを訴えて世論を動かす-。要は、本当も真実も押しのけて作り話や誤った情報がまかり通るということ。この曲を含むアルバムが出たのは2021年秋ですが、その年の1月には米国でまさに<狂った時代>を思わせる事件も起きています。
 「大統領選に不正があった」と根拠なく主張して結果を認めない前大統領に煽(あお)られる形で、熱狂的支持者らが連邦議会議事堂を襲撃した、あの事件です。あの日、世界が目撃したのは、前大統領が振りまく「ポスト真実」のエネルギーが極限まで高まり、暴力の形で民主主義の象徴に襲いかかった、何ともおぞましい光景でした。
 『グッド・ファイト』という米ドラマにも、リベラル派の弁護士らが事件を伝えるテレビを見ながら愕然(がくぜん)とするシーンがあります。「もうめちゃくちゃだ」と嘆く一人に、別の一人が「いい面も見えた」と言って、トランプ氏支持者らによる何十件もの選挙不正の訴えが、ことごとく退けられていることを挙げ、こう続けます。「ガードレールは今もしっかりしている。司法システムは機能した」
 現職大統領がああまで圧力をかけても、根拠のない訴えは司法が退けている。それを「ガードレール」と呼んだわけです。
 もしかすると、ドラマの脚本家が米政治学者スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット両氏の共著『民主主義の死に方』を読んでいたのかもしれません。


◆政治権力には屈しない

 立派な憲法があっても、それだけでは民主主義を守り抜けないと同書は言います。「対立する相手を敵と決め付けない」「法に反しないからといって何をしてもいいとは考えない」から「大統領は噓(うそ)を言わない」といったことまで、実に多くの社会規範、不文律、慣習が民主主義を支えているとし、それらを「ガードレール」と呼んでいるのです。
 ドラマの弁護士が言うように、「司法システムは政治権力に屈しない」もしかり。同志社大の吉田徹教授も、月刊誌の対談で、レビツキー氏らの指摘を紹介しながら「アメリカには徹底した三権分立というガードレールがあったからこそ、あと一歩のところで踏み留(とど)まれた」と述べています(『中央公論』1月号)。
 しかし、過日の社説でも同僚が書いていましたが、多数派宗教至上主義に傾斜した宰相に、司法までが迎合し、深刻な民主主義の後退を招いているインドのような例もありますし、わが国にも、「気配」がないわけではありません。
 最近なら、昨年9月の最高裁の判断が一例。2017年に当時の安倍晋三内閣が、野党からの臨時国会の召集要求に3カ月以上、応じなかったのは憲法違反だと訴えた訴訟で、原告の野党議員らの上告を退けました。憲法の規定に則(のっと)った要求にはいわば自動的に応じるのが筋です。なのに延々引き延ばし、実に98日後にやっと国会を開いたと思ったら冒頭で解散。野党側は首相の「森友・加計」疑惑を追及する貴重な討議の時間を奪われました。
 「内閣は合理的期間内に召集する法的義務を負う」「20日あれば十分」と棄却に反対した判事もいましたが、1人だけ。議会制民主主義が「道」をはずれたことをとがめないで、どうして<ガードレール>と呼べるでしょう。

 

◆民主主義の「逸脱」防げ

 まるで、確かなるべき大地が揺らぐ地震の恐怖のように、「ポスト真実」の時代に、私たちが感じているのは何とも言えぬ足元の覚束(おぼつか)なさです。換言すれば、これだけは、という確かなものがこうまで求められている時代もない。
 それに応える主要なものの一つが司法システムなのだということを、すべての司法関係者は肝に銘じておいてほしいと思います。政治が、民主主義にさらに深刻な逸脱をもたらそうとするとき、びくともしない<ガードレール>がなければ困るのです。