昨年末、2025年度に「多子世帯の大学無償化」が始まるというニュースが話題になった。しかし、そうした救済策よりも、もっと根本的な問題がある。奨学金の返済でも、無償化の財源でもない、日本社会の将来を左右する教育問題を考える(中村隆文『なぜあの人と分かり合えないのか』より一部編集のうえ引用する)。
救済策は必要だが……
昨今、「大学の授業料を無償にしろ」とか、「大学や大学院の奨学金は給付型にして、返済は免除にしろ」という声をよく耳にするようになった。
私自身、大学院のとき利用した制度では一部学費が免除にならずに夜勤のガードマンをしたり、大学院時代の奨学金をおよそ一五年かけて返済したという苦労もあるので、そうした政策の実施には賛同的である。
なにより、教員をしていると、実家が家計的に苦しくてバイトと学業の両立が困難な学生を頻繁に見かけるし、コロナ禍においては飲食店の休業もあってバイトできる環境が激減したり、保護者が職を失って仕送りがストップしたというケースもあるので、救済策というのはあった方が断然よい。
ただし、こうした政策を求める声のなかに、たびたび、「大学で学ぶのは、いまや義務教育のようなものだ! だから授業料を無償化しろ!」というようなものがあるが、それを聞くと、私は若干複雑な気分になる。
奨学金制度と財源
学費無償化や給付型奨学金というのは、大学で学びたいのにそのチャンスがない学生や、卒業してから多額の借金を背負ってしまいかねない学生にとっては必要不可欠である。教育というのは平等であるべきで、裕福な家庭に生まれた子だけが大学を卒業し、そうでない子はあきらめたり、多額の借金を自分で背負ったりするというのはあまりにも不平等であり、社会的に不正義といえる。
ただし、すでに、保護者の収入に応じた授業料等の減免や、奨学金制度というものがあるわけで、これをさらに―─日本のどの大学においても公平な形で─―すべての世帯へ拡大するということは、財源のことも考えなければならない。
もちろん、財源の一部は、大学が担ったり、企業からの支援であったり卒業生などからの寄付金でまかなえるにしても(実際、そのような奨学金もあるので)、その拡大において税金がさらに投入されることは不可避である。
しかし、学歴偏重主義や、それがすでに引き起こした社会的格差がある現状において、これが「公共の問題」として理解され、税金を投入することが多くの人たちに支持されるかといえば、なかなかそれは難しい。
税金を投入する正当性はあるか
というのも、「高学歴と低学歴」「大学卒とそれ以外」では、それぞれ後者の方が、傾向としては低賃金であったり、過酷な労働に従事する割合が大きい。そうしたなか、後者の側からすると、自分たちが働いて稼いだ収入の一部(税金)が、自分が選ばなかった─―そして自分よりも高待遇になるであろう―─進路を選択した人たちへと当然のように流れてゆくのに、すんなりと納得することなどできないからである。
そもそもの学歴偏重主義や業績主義においては、「あとで困らないように、学歴を身につけたほうがよい」という思惑から、学生は「大卒」という学歴を欲しているわけで、それはいわば「自己への投資」(あるいは自身が世話する子どもへの投資)に他ならない。
だとするならば、「自らへの投資として(ときに保護者の力も借りながら)大学へ入学した高学歴となりうる学生への支援の分まで、そうではない低学歴の人も含めた社会全体が負うべき義務なのだ」という言い分は、少なくとも低学歴・低所得者層にとっては正当性をもちえないだろうし、これまで自分(たち)でお金を払って苦労してきた大学卒業者たちも納得はしないだろう。
つまり、学歴偏重主義のもと分断気味なこの情勢において、「学生のため」という理念が公共のものとして共有されうるかといえば、なかなか難しいといえる。
学部卒と大学院卒の間のギャップ
それに、大学などの高等教育機関への進学をあえて選ばず、すぐに働いて自分で稼ぎ始めた中卒・高卒者の人たちからすれば、「大学で学ぶのは、いまや義務教育みたいなものだから」というその言い方自体に嫌悪感を覚えるだろう。
それは、言い換えれば、「大学に進学していない人は義務教育レベル未満の人」という言い分であり、そこまで見下されているにもかかわらず、自分たちの税金の一部が自分たちを見下している側に流れ込むのを良しとするはずもないからである。
自分がそれなりに苦労した経験をもつ大学卒・大学院卒であれば、そうした学生支援政策に手放しで共感・賛同するかもしれない。それでも、学部卒と大学院卒の間ですらギャップがあるくらいである。
実際、「ふつう大学卒業してすぐ働いて税金を納めるのに、修士や博士までいって、それを支援してくれだなんて……」と話す大学生(学部生)をみたこともある。そうであれば、大学に行った/行かなかったといった、まるで異なる経験をした人同士においては、なおさら互いのことはなかなか理解できにくい。
学歴主義の弊害
こうした状況下、仮に大学院の学生や卒業生たちが大規模的な政治運動を行ったとしても、それが、中卒や高卒といった人たちの共感を得るかといえばそれは現状難しい。というのも、ともに支えあって頑張っている、といった意識がそこにはないからである。 簡単にいえば、ふれあいがなく、階級意識だけがあるその状況で、それを共通の関心事として解決しようという動きが世間に広がることはまずありえない。そしてこれは他のさまざまな事柄においても共通する事態である。
だからといって、大学生や大学院生への支援が無意味といいたいわけではない。エリート意識のもと「大学に行くのは当然なんだから」という考え方だけでなく、「貧しいくせに大学に進学したんだから自己責任でしょ」と突き放すその考え方さえも、学歴偏重主義が引きおこした分断特有のものであり、いずれもそれなりの理はあるが絶対的に正しいというわけでなく、この二項対立にとらわれることのない考え方が「公共」において求められる。
教育をどう考えるか
そもそも、「教育」が公共の事柄であるのは間違いない話であるし、そうした教育の事柄から大学・大学院を排除し、「それは個々人の問題だから」とか「自分で投資しているだけでしょ」と言って切り捨ててしまうのは、個人主義・市場主義におかされた考え方であって、公共的事柄を取り扱う態度としては望ましいものではない。
それに、学費無償化や給付型奨学金について公共の問題として改善が望まれるのは、単に苦しんでいるかわいそうな学生がいるからという感情的な話だけではない。
社会的な「知」の拠点である大学を─―もちろん、他の現場などにもその担い手はいるが、それも大学との間で互いに協働することでより高いレベルでの「知」が実現できるわけなので─―今後担ってゆくであろう修士号・博士号取得者が、困窮的事情によって減少しすぎてしまうと、結果として大学における研究・教育レベルが落ち、それは最終的には社会全体の知的レベルの凋落を招くことが危惧される。その損失は、大学の外側にも波及するであろう。
それを防ぐためにも、より多くの学生がその才能を開花できるような社会的援助が必要であり、その一環としての学費無償化や給付型奨学金なのである。 ゆえに、個別イシューとして学費無償化や給付型奨学金に賛同するとしても、現状の学歴偏重主義や学歴差別、偏見や見下しは即座に撤廃されるべきものであることに変わりはないし、学歴に基づく賃金の格差や生活水準の格差などは同時並行的に解消されるべきである。
アメリカナイズされた能力主義・業績主義を全廃しろとはいわないし、専門的な仕事内容によっては高学歴=高待遇というのもやむをえないだろうが、一般的な仕事についてはどのような学歴であれ、それなりにフェアに扱われるべきである。〔後略〕
学術文庫&選書メチエ編集部