大学は無償にすべきか? 学歴主義の弊害がもたらす日本の知的凋落(2024年2月23日)

救済策は必要だが……

奨学金制度と財源

税金を投入する正当性はあるか

 というのも、「高学歴と低学歴」「大学卒とそれ以外」では、それぞれ後者の方が、傾向としては低賃金であったり、過酷な労働に従事する割合が大きい。そうしたなか、後者の側からすると、自分たちが働いて稼いだ収入の一部(税金)が、自分が選ばなかった─―そして自分よりも高待遇になるであろう―─進路を選択した人たちへと当然のように流れてゆくのに、すんなりと納得することなどできないからである。

 そもそもの学歴偏重主義や業績主義においては、「あとで困らないように、学歴を身につけたほうがよい」という思惑から、学生は「大卒」という学歴を欲しているわけで、それはいわば「自己への投資」(あるいは自身が世話する子どもへの投資)に他ならない。

 だとするならば、「自らへの投資として(ときに保護者の力も借りながら)大学へ入学した高学歴となりうる学生への支援の分まで、そうではない低学歴の人も含めた社会全体が負うべき義務なのだ」という言い分は、少なくとも低学歴・低所得者層にとっては正当性をもちえないだろうし、これまで自分(たち)でお金を払って苦労してきた大学卒業者たちも納得はしないだろう。

 つまり、学歴偏重主義のもと分断気味なこの情勢において、「学生のため」という理念が公共のものとして共有されうるかといえば、なかなか難しいといえる。

学部卒と大学院卒の間のギャップ

 それに、大学などの高等教育機関への進学をあえて選ばず、すぐに働いて自分で稼ぎ始めた中卒・高卒者の人たちからすれば、「大学で学ぶのは、いまや義務教育みたいなものだから」というその言い方自体に嫌悪感を覚えるだろう。

 それは、言い換えれば、「大学に進学していない人は義務教育レベル未満の人」という言い分であり、そこまで見下されているにもかかわらず、自分たちの税金の一部が自分たちを見下している側に流れ込むのを良しとするはずもないからである。

 自分がそれなりに苦労した経験をもつ大学卒・大学院卒であれば、そうした学生支援政策に手放しで共感・賛同するかもしれない。それでも、学部卒と大学院卒の間ですらギャップがあるくらいである。

 実際、「ふつう大学卒業してすぐ働いて税金を納めるのに、修士や博士までいって、それを支援してくれだなんて……」と話す大学生(学部生)をみたこともある。そうであれば、大学に行った/行かなかったといった、まるで異なる経験をした人同士においては、なおさら互いのことはなかなか理解できにくい。

 学歴主義の弊害

教育をどう考えるか

学術文庫&選書メチエ編集部