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1859年、イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルによる『自由論』初版が出版されました。原題は『ON LIBERTY』。「自由とは何か」「自由はなぜ大切か」「個人の自由はどこまで許されるか」というテーマに鋭く切り込んだ同書は、哲学古典のひとつとなった今なお、自由について語られた本の最高峰とみなされています。
【写真】『哲学古典授業 ミル『自由論』の歩き方』
現代社会に生きるわたしたちは、個人の自由を守ることの大切さを知っているはずです。しかしながら現在、もっとも尊ばれるのは「自由な生き方」ではなく「普通の生き方」だと言えるでしょう。多くの人々が、社会の安寧のためには個人の自由は制限してもよいと考えています。たとえば、選択的夫婦別姓制度について。社会の安寧のためなら夫婦同姓を強制してもよい、と考えて反対する人がいます。また、自らの地位を自分の努力のみで築いてきたと考える人たちは、自堕落な生活をする人が世論等によって罰せられることを当然と考えています。このような自由の制約は、結果的には社会をどんどん悪くするということを、J.S.ミルは160年以上も前に、見事な議論で指摘しています。
『自由論』を読むための新たな古典ガイドブック『哲学古典授業 ミル『自由論』の歩き方』(光文社新書)を引きながら、「個人の自由」について、一緒に考えていきましょう。
※本記事は児玉聡著『哲学古典授業 ミル『自由論』の歩き方』(光文社新書)から一部抜粋し、再構成したものです。
児玉聡(こだまさとし)
1974年大阪府生まれ。2002年、京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。京都大学大学院文学研究科准教授を経て、2022年より同教授。専門は倫理学。著書に『功利と直観 英米倫理思想史入門』(勁草書房)、『功利主義入門 はじめての倫理学』(ちくま新書)、『実践・倫理学 現代の問題を考えるために』(勁草書房)、『オックスフォード哲学者奇行』(明石書店)、『Covid-19の倫理学 パンデミック以後の公衆衛生』(ナカニシヤ出版)、『予防の倫理学 事故・病気・犯罪・災害の対策を哲学する』(ミネルヴァ書房)などがある。
「自殺の自由」
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前回記事に続き、「個人の自由」について考えるうえでの練習問題として「自殺の自由」をとりあげます。自殺というと軽い話題ではないですが、自由主義を考える上で重要な話なのであえて取り上げたいと思います*1。もし読んでいて気分が落ち込んできた方は、この記事を閉じて、友人や専門の窓口に相談したり、カウンセリングを受けたりするようにしてください。
※不安や悩みの主な相談窓口は、こころの健康相談統一ダイヤル(0570・064・556)、よりそいホットライン(0120・279・338)など。
さて、ミルは『自由論』で自殺の話をしていませんが、ここまでの議論を踏まえると、ミルならどのように主張すると思いますか?
(1)自殺は自分だけでなく周囲の人に危害を与えるため、他者危害原則によって禁止することができる。
(2)自殺は自分の利益にしか関わらず、他人に危害を与えるとまでは言えないため、各人の自由である。
(3)自殺は自分を殺すことであり、他人を殺すのと同じだけ道徳的に悪いことだから禁止することができる。
おそらくミルの答えは(2)だろうと思います。すなわち、原則として自殺は上記でいうプルーデンスの問題、つまり自分の利害のみに関する「プライベートな問題」であり、道徳とは無関係だと言うのではないかと思います。しかし、ここでは二つの注意が必要です。
一つは、飲酒によって他人への義務を果たせない人は道徳的に問題だとミルは主張していたので、自殺によって子育ての義務などを放棄したと考えられる場合には、その限りで他人に危害を与えているとミルは主張する可能性があります。これは、単に自殺によって周りの人々が悲しむというに留まらず、約束を守らないとか、責任を果たさないという問題です。
しかし、逆に言えば、自殺によるそうした義務の不履行がほとんど考えられない場合は、自殺は道徳の問題ではないとミルは言うでしょう。例えば重い病気でまもなく死ぬことがわかっているため、医師に処方された致死薬を服用して死ぬという医師幇助自殺のような場合は、仮に子どもの養育義務があったとしてもいずれにせよ義務の履行はできないため、死ぬことは他者危害にならないと言えそうです。
もう一つは、「自殺をするかどうかはプライベートな問題である」としても、周りの人は説得を試みる自由があり、おそらくは説得に努める義務さえもあるということです。仮に自殺が他人に危害を与えないという意味で道徳の問題ではないとしても、自殺する本人が数ある行為の中で自殺を選ぶことが賢明なことなのかそうではないのかについて、他人が助言することは十分に適切だと思われます。
大学に進学するか、そうせずに音楽の道を目指すかというのはプライベートな問題でしょうが、家族や友人たちが将来の見通しについて助言することは問題ないと思われます。それと同様に、自殺を考えている人に対しても、なぜ自殺をしようと思っているのか、それは当人の利益だけを考えた場合でも賢明と言えるのか、それとも愚かな選択と言うべきかについて検討することが重要だと、ミルなら言うのではないかと思います。
*1 自殺や安楽死が自由主義においてどのように論じられるかについては、山田卓生『私事と自己決定』(日本評論社1987年、第13章、第14章)や児玉聡『実践・倫理学』(勁草書房、2020年、第4章)を参照。
ミルの立場に対する批判の検討
皆さんはここまでのミルの議論に納得したでしょうか。ミルの立場に対しては、ミル自身も予想していた重要な批判があります。それは、そもそも「自分のみに関わる行為」というのは存在するのだろうか、という問題です。ミルは他人に危害を加えない限り個人は自由だと言います。しかし、「他人に関わらない行為」というのは存在するのでしょうか。ミルはこのような批判があることを予想し、まずその批判を次のように非常にもっともらしい仕方で述べています。
「以上、人間の生活には、その人だけに関わる部分と、他人にも関わる部分があると区別してきたが、こうした区別を認めない人もたくさんいるだろう。社会を構成する一メンバーのどんな行為も、別のメンバーにまったく関係しないということがありうるだろうか(と彼らは問うに違いない)。彼らの言い分はこうだ。
完全に孤立して生きている人間は一人もいない。人が自分自身に深刻な害、あるいは取り返しのつかない害を与えるようなことをしたら、災いは少なくとも近親者に及ぶし、ときにはさらに広い範囲にまで及ぶ。
もし、自分の財産を損なえば、それを支えにしている人々に直接的ないし間接的に打撃を与える。また、社会の財産を多少なりとも減少させるのが普通だ。(……)
もし、その人が悪癖や愚かさで目立てば、たとえ他人に直接的な被害をもたらさなくても、その人はそれでも(やっぱり)悪い見本という形で社会的に有害である。そこで、人々がその人の行為を見たり聞いたりしたせいで堕落しないよう、あるいは道を誤らないよう、その人は自己抑制を強いられざるをえない。(……)
もし、子どもや未成年の若者については、明らかに本人に逆らってでも保護すべきであるとすれば、そういう子どもと同じくらい自己管理能力に欠けた成人についても、社会は同じように保護すべきではないだろうか。
もし、賭博・泥酔・淫乱・怠慢・不潔が、多くの違法行為と同様に、幸福を損ね、進歩を妨げるものであるならば、どうして法律は、実行可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、これらの行為も抑制するよう努めずにいられるだろうか(と問えるはずだ)。そして、法律には付きものの不完全さを補うものとして、世論が、少なくともこうした悪を強力に取り締まる体制をつくり、悪いことをする連中に厳しい社会的制裁をくらわせるべきではないだろうか。」(光文社古典新訳文庫『自由論』〈J.S.ミル著、斉藤悦則訳/以下すべて〉194~196頁)
まだ続くのですが、ミルはこのように自分の立場に対する反論を強力な形で提示しています。これは先ほど例として挙げた、サトシが仕事がないときはひたすら酒を飲みながらゲームをするような場合です。例えば、サトシは子どもの悪い見本になってしまうから、強制的にゲームをやめさせて、何か有用なことをさせた方がよい、という主張ですね。自殺については、家族や友人など周りの人に大きな影響を与えるだけでなく、典型的には有名人の自殺の場合のように、ウェルテル効果と呼ばれる模倣自殺をもたらすリスクもあります*2。まさに「悪い見本という形で社会に有害である」という点が当てはまるかもしれません。
こういう批判についてどう応答すべきかについては、ミルはすでによく考えています。まず一つは、ミルは各人には酒を飲む自由はあるけれども、いくつか飲酒を規制する根拠はあると言います。例えば先にも述べたように、酒を飲むとサトシが子育てをできずに子どもに対して養育義務を果たせなくなってしまう場合。こういう場合は規制が適切だという風にミルは言います。
「たとえば、ただ単に酒に酔っていることだけで人を罰してはならないが、兵士や警官が勤務中に酔っぱらっていたら罰するべきである。要するに、個人にであれ公衆に対してであれ、明らかに人にダメージを与えるものであれば、あるいは明らかにダメージを与える危険性があれば、それはもはや自由の領域の問題ではなくなり、道徳や法の領域の問題となる。」(199頁)
要するに、飲酒は基本的にプルーデンス(自愛の思慮)の問題だが、飲酒によって他人に対する義務を果たせない状態になった場合は、法や道徳の問題になる、ということです。飲酒運転が禁止されるのも、飲酒そのものが問題なのではなく、飲酒して自動車を運転すると他人にとって危険だから禁止されるわけです。
ミルは続けてこう言います。
「では、偶発的な損害、もしくは、いわゆる見なし損害が生ずるだけの場合はどうだろうか。すなわち、社会に対して果たすべき義務を怠ったわけでもなく、自分以外の特定の個人に実質的な損害をもたらしたわけでもないのに、その人の行為がたまたま社会に迷惑を与えた場合はどうだろうか。
そういう場合なら、社会はこの迷惑を、人間の自由というもっと大きな善のために、甘んじて受け入れることができるはずである。」(199~200頁)
この「偶発的な損害(contingent injury)」とか、「見なし損害(constructive injury)」というのが何を指しているのかは、あまりはっきりしないのですが、次のような例が考えられそうです。例えば冬山の登山は危険なので禁止されている地域もありますが、夏であっても登山が普段の生活に比べて危険なことは変わりありません。そういう登山をして遭難した場合に、救助隊が出動したりして、他人に迷惑がかかるような場合があります。場合によっては救助隊のメンバーが命を落とすこともあるかもしれません。しかし、ミルはそういった損害は社会の側が我慢しよう、個人に自由を認めることでもっと大きな利益があるんだから、と主張しています。
ただ、どういう場合が「その人の行為がたまたま社会に迷惑を与えた場合」とされるのかを明らかにする必要があると思います。『自由論』の中ではこれ以上は論じていないのですが、例えば私の身近なところの話題として、ある大学の文化祭でアルコール飲料の販売や持ち込みを認めるかどうか、ということが問題になりました。次の例について考えてみてください。
大学の文化祭でアルコール飲料の販売を認めてもよいか
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ある大学では、文化祭でアルコール飲料の販売を認めるかどうかで大学当局と学生側が議論をしている。大学当局の主張によると、毎年、未成年の飲酒の可能性が指摘されており、また急性アルコール中毒の患者が大学病院に運ばれてくるため、大学病院側からも苦情が出ている。そのため、大学当局は持ち込みも含めてアルコール飲料を一切禁止すべきだと学生側に要求している。
一方、学生側の主張によれば、未成年の飲酒や急性アルコール中毒の予防については一定の取り組みを行っているため、後は(ミルが言うように)個人の自由に任せるべきである。「迷惑」がかかるという理由で自由を抑制することは、学生の自主性を尊重しないことにつながる。
皆さんはどうお考えでしょうか。人によっては、大学病院の救急外来に急性アルコール中毒の学生がたくさん運ばれてくると、他の救急患者の診療が遅れるから、これは「迷惑」どころか、立派な「危害」になる、と言うかもしれません。
どこまでが迷惑で、どこからが危害なのか、というのは『自由論』を読んでもはっきりしないところであります。私の考えでは、ミルが「危害」によって考えているのはかなり狭く、例えば先に見たように、「言論そのものによる危害(言葉が人を傷つける可能性)」を認めているかさえわからないところです。明確に「危害」と呼べるのは、身体的な危害とか、所有物を盗まれるといった、そういう害悪だと言えます。他者へのそうした危害がある場合や、そのリスクが高い場合には個人の自由を制約することが認められます。しかし、それ以外の他人への害悪に関しては、先の引用にあったような偶然的な損害と呼び、実際に損害が生じた場合には補償や賠償が必要になるかもしれませんが、原則は個人の自由を規制しないでおこう、と考えているように思います。
他者危害原則における「危害」をどう定義するかというのは未解決の大きな問題ではありますが、ミルの議論が面白いなと思うのは、個人の自由がもたらす大きな利益を考えるなら、危害と呼ぶかどうかはともかく、ある程度までは社会の方で甘受すべき損害がある、と主張している点です。ここでもミルは社会の側に寛容を求めているように思われます。
この点は、社会全体の幸福の最大化を是とする功利主義的な発想だと言ってもいいところだと思います。ALSの患者に関して、「私なら死ぬ」とか「そうなったら死んだ方がまし」というような発言がSNSでされるとして、それは一部の人々を傷つけることもあるかもしれない、と。場合によってはそういう発言が引き金になって自殺する場合だってあるわけですから発言には重々気をつけないといけません。それでも、言論の自由が持つ効用を考えた場合、そうした発言もある程度までは社会で許容しておいた方が、そうしない場合よりも全体としてよいのではないか、ということをミルは考えていると思います。こうした発言を「危害」と認めるにせよ、そうでないにせよ、功利主義的にはそれを社会として許容した方がよいのではないかということです。
児玉 聡(京都大学大学院文学研究科 教授)
ミル『自由論』の歩き方 哲学古典授業 (光文社新書 1339) 新書 – 2024/12/18
児玉 聡 (著)
【本書の概要】
哲学古典『自由論』は「自由とは何か」「個人の自由はどこまで許されるか」という永遠のテーマに鋭く切り込んだ、現代人にとっても必読の書。本書は光文社古典新訳文庫を底本とし、京都大学の倫理学講義をベースに、「他人に危害を加えない限り人は自由に行為できる」という他者危害原則、普通規範、言論の自由の範囲など、今なお議論が活発な論点について親しみやすく説いた「古典の歩き方」である。
【目次】
まえがき
第一講:J・S・ミルの生涯
一、一八五九年に出た重要な本
二、ミルの生涯
三、ミルが受けた英才教育
四、二十歳の頃の「精神の危機」
五、情操教育の重要性
六、『自由論』の序文
七、ミルと妻ハリエット
コラム① ミルの墓
第二講:多数者の専制と個人の自由 『自由論』第一章
一、『自由論』のテーマ
二、多数者の専制
四、他者危害原則
五、個人の自由が大事な理由
六、個人の自由の三分類
七、学生の意見
コラム② 『自由論』に対するミル自身の評価と、共著者問題
第三講:言論の自由 『自由論』第二章
二、抑圧されようとしている意見が真である場合
三、抑圧されようとしている意見が偽である場合
四、ソクラテスの問答法の有用性
五、半真理の場合
六、現代の問題と学生の意見
コラム③ ミルの人柄について
第四講:天才・変人・そして自由 『自由論』第三章
一、ここまでの復習
二、「生き方の実験」をする自由
三、個性と「普通」
四、「普通」の生き方の問題点
五、多数者による個性の抑圧
六、個性の社会的有用性
七、天才を育てる土壌
八、変人の重要性
九、個性に不寛容な社会
十、ヨーロッパの「中国化」と多様性の喪失
十一、フンボルト──自由と多様性
十二、「普通規範」の批判
十三、学生の意見
コラム④ 女性の自由
第五講:自由はどこまで許されるか 『自由論』第四章・第五章
一、自由主義の諸原則
三、他人へのお節介はどこまで許されるか
四、自堕落な生き方は不道徳か
五、モラリティとプルーデンス
六、自殺は個人の自由か
七、ミルの立場に対する批判の検討
八、大学の文化祭でアルコール飲料の販売を認めてもよいか
九、イスラム教と豚の例
十、飲酒規制の例
十一、一夫多妻制は許されるか
十二、『自由論』第五章の簡単な要約
十三、学生の意見