今やすっかり日常的な言葉となった「フェイクニュース」。2016年のアメリカ大統領選挙をきっかけに広がった印象がある。トランプ前大統領が、自分にとって都合の悪い報道や不都合な事実に反撃する形で多用していたからだ。
ニュースは他人から伝わってくる情報だ。では、他人が言うことはどこまで信じていいのか。流れてくるうわさは信じてはならないものなのか。著者はネット空間とリアル社会を比較しながら検討していく。
またフェイクニュースか否かを判別する際、専門家の意見やマスメディアの伝える内容を参考にする人は少なくない。だが、その信頼性自体はどう担保されているのか、いないのか。
さらに「陰謀論」についても、それは「信じてはいけないものだろうか」という意外な問いを立てて検証する。このように、本書に何度も登場するのが、「しかし、本当にそうだろうか」といったフレーズだ。常識や当たり前と思っていることも、あえて疑ってみたり、別の側面から考察してみたりすることで問題の本質がより明確になっていく。
フェイクニュースへの対応として著者が重要視するのは、「ネット上の証言がなされる状況に応じて信頼性を評価する知的な自律性」を持つことである。
[レビュアー]碓井広義(メディア文化評論家)
1955年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。千葉商科大学大学院政策研究科博士課程修了。博士(政策研究)。1981年テレビマンユニオンに参加。以後20年にわたりドキュメンタリーやドラマの制作を行う。代表作に「人間ドキュメント 夏目雅子物語」など。慶應義塾大学助教授などを経て2020年3月まで上智大学文学部新聞学科教授。著書に「少しぐらいの嘘は大目にー向田邦子の言葉」(新潮社)、「倉本聰の言葉―ドラマの中の名言」(同)、「ドラマへの遺言」(同)ほか。毎日新聞、北海道新聞、日刊ゲンダイなどで放送時評やコラムを連載中。[公式サイト]碓井広義ブログ
協力:新潮社 新潮社 週刊新潮
山田 圭一 (著)
他人の言葉、うわさ、専門家の発言、マスメディアの報じるニュース、ネット発のニュース、あるいは陰謀論……、私たちは瞬時に莫大な情報を手にする一方、時に何を信じたらいいのか、わからなくなってしまう。本書では、「知る」ことを哲学的に考察し、「真理を多く、誤りを少なく」知るための方法、そしてその意味を問う。
目 次
まえがき
序 章 フェイクニュースとは何か
新たな事態が生じている
真実か否か
正直か否か
定義ではない明確化
なぜ問題なのか
真理の価値って何だろう
真理を気にかけることの価値
第1章 他人の言っていることを信じてもよいのか
リアルとネット
確かなものって何だろう
可謬主義と不可謬主義
証言の認識論
証言だけでは不十分(還元主義)
証言だけで十分(非還元主義)
認識的な自律と依存
特定の証言を信頼する条件
聞き手は何をすべきか
ネット空間での人格の同一性
モニタリングができないネット空間
政治的な動機
経済的な動機
面白がらせたいという動機
評価可能な能力条件とは
ネットの証言を取り巻く不透明さ
認識目標の再点検
第2章 うわさは信じてよいものか
信じてはいけないものの代表?
うわさとは何か
オルポートの実験
認知的な歪み
うわさは信じてもよい(コーディの反論)
判断を保留する意味
ネット上のうわさは信じてよいのか
ワンクリックで伝わる功と罪
再投稿における保証
情報源の信頼性に対するリスク
理解と納得の共有
感情の正当化と共有
うわさ話を楽しむ
自由の制限
うわさを楽しむ条件
第3章 どの専門家を信じればよいのか
専門家不信
専門知についての三つの困難
論証の仕方
過去の証言の記録
利害関心とバイアス
同意する専門家の多さ
信念形成ルートの独立性
メタ専門家による同意
他の専門家による査定
査読制度
認識の基礎としての制度
困難をどう克服するか
知的な謙虚さ
専門家への信頼は取り戻せるか
第4章 マスメディアはネットよりも信じられるのか
インターネットメディアの登場
情報の門番
マスメディアの理想と現実
査読制度との類比は成り立つか
マスメディアを信頼する根拠
信頼性への反論
メディアの評価の細分化
陪審制度との類比は成り立つか
証言選別の妥当性
多様性の認識的価値
インターネットのフィルタリング問題
フィルターバブルの認識論
エコーチェンバーの認識論
認識バブルに陥らないために
第5章 陰謀論を信じてはいけないのか
不合理ではない 社会における開放性
心理学の陰謀論
カッサムによる批判
知識を失わせる
政治的プロパガンダ
反証不可能性
三つの対処法
終 章 真偽への関心は失われていくのか
あとがき
参考文献
もっと少なく読む
この商品