発達障害の子どもたちへの指導や支援を含めた特別支援教育がスタートして今年で18年目となる。学校関係者や保護者らに広く知られるようになり、特別支援学級などで学ぶ児童生徒は急増。教員不足や学びの質といった課題も見えてきた。鹿児島県内の現状を報告する。(シリーズ・かわる学びや@鹿児島~特別支援教育の今①より)
鹿児島市の中学3年の長女が療育を勧められたのは、幼稚園の年中クラスの時だった。頻繁にトイレへ行きたがり、日に10回を超えることがあった。母親(47)は「療育といえば、重い障害がある子というイメージしかなかった。まさか自分の子が、とすごくショックだった」と振り返る。
療育を受けながら、小学校入学へ向けた就学相談を受けた。市教育委員会から示されたのは「特別支援学級(支援級)への入級」だった。当初、夫は「うちの子は頭が悪くない」と怒り、互いの両親も「レッテルを貼られたようだ」と不満を示した。
8年前、支援級に対する世間の理解は、今ほど進んでいなかった。ママ友の助言を参考に入学して間もなく通常学級のPTAに出向き、長女の特性を説明。「困ったら手を差し伸べてほしい」と頭を下げた。
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発達検査で確定的な診断が出なかった長女は、小2で支援級を“卒業”。3歳年下の長男は多動などの特性があり、入学から小6まで支援級に在籍している。学校の支援級数は、長女がいた頃の3倍に増えた。長男は中学でも支援級を希望しており、今は反対する家族もいない。
支援級に対する受け止めが変わったのは、療育での経験が大きかった。同じ境遇の保護者と子どもの困りごとや特性を学び、子育ての大変さを分かち合った。父親や祖父母向けの勉強会もあった。母親は「障害への理解が深まり、偏見や無知から子を守るために闘う練習になった」と感謝する。
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「支援級がなかったらと考えると恐ろしい」。同市で小6の長男を育てる母親(48)は振り返る。幼い頃から集団や大きな音が苦手で手触りを気にして泥遊びもできなかった。検査を受けたが診断名は付かない。
どう対応すべきか悩んでいたところ、人一倍繊細な子どもハイリー・センシティブ・チャイルド(HSC)の専門書と出合った。「うちの子はこれだったんだ」と胸のつかえが取れた。
幼稚園の教諭から、小学校では支援級に入ることを勧められ、難色を示した夫には黙って手続きを進めた。「この子を守るのが一番大事」と考えたからだ。
長男は大勢の前で困りごとを伝えるのが難しく、国語と算数以外を学ぶ通常学級にはなじめなかった。高学年になり、さらに大人数となった教室には耐えられず、不登校がちに。制服を着ると涙をこぼし、正門を通れなくなった。
それでも週に数回、何とか登校できているのは8人しかいない支援級だからだ。母親は「自己肯定感が伸ばせて、そのままの自分でいいと思わせてくれる居場所」という。中学でも支援級を希望しているが、市教委からの連絡はまだない。