5歳の女の子が、炎天下の60キロを歩いて避難 関東大震災の直後、一家を勇気づけた食と人の親切心(2024年8月30日『東京新聞』)

 
関東大震災 横浜からの証言>後編 9月4日以降
 横浜で関東大震災の被害に遭った朝比奈録三郎=当時(33)。妻子を実家のあった神奈川・小田原に避難させ、自らは東京・丸の内の職場に向かう。過酷な状況下で、一家を勇気づけたのは酒と食べ物、そして人の親切だった。
丸の内の職場に向かった朝比奈録三郎は、途中で焼酎とうどんにありつき、「勇気百倍」と喜んだ

丸の内の職場に向かった朝比奈録三郎は、途中で焼酎とうどんにありつき、「勇気百倍」と喜んだ

◆「少々まずかったが…震災直後においては大名の御馳走」

 1923年9月4日朝、録三郎は妻子を妹夫婦らとともに小田原に避難させることを決断する。ところが一行は途中で離れ離れになってしまう。心配した録三郎は戸塚付近まで捜しに行くが会えない。あきらめて帰る時、妹を見つけた。

 妹が二児を連れて力無くトボトボと保土ケ谷付近を行く姿を発見し、か弱き女の足、年端もゆかぬ二児の身を思い、腹を搔(か)き毟(むし)らるる思いであった。

 6日、一緒にいた友人が保土ケ谷、戸塚方面から食糧を調達してきた。

 ようやく玄米一升ばかり探して来た。玄米なりとも、日本米を食したのは六日目に始めてだ。

 8日に、知人から小田原に避難した家族の無事を聞いた録三郎は翌9日、友人とともに東京の職場へ向かう。品川駅で降り、歩いて職場(東京中央郵便局)を目指した。

 高輪通りをトボトボと行くうち一軒の酒屋で宝焼酎四合瓶一本買い、蕎麦(そば)屋に入り饂飩(うどん)二杯ずつまで食いながら飲み勇気百倍。(略)砂塵(さじん)の渦巻く中を京橋、日本橋を渡り、迂回(うかい)して丸の内の勤務先へ着いた。(略)互いに無事を喜び合い、昼飯を配給された。見れば茶色の握り飯と赤鯛(あかだい)の煮付けにたくあん茶飯だと思って喜んで食べたら、これは玄米であった。少々まずかったがお菜(さい)が尤物(ゆうぶつ=すぐれもの)で、震災直後においては(略)大名の御馳走(ごちそう)だ。

 翌未明の汽車で横浜に戻ると、小田原に行っていた知人が戻ってきた。

 帰途、味噌(みそ)の味のよいのと、牛肉を買ってきた。それで気が勇み立ち、葱(ねぎ)か馬鈴薯ばれいしょ)を探すべく、二人で農家をあさりに大船辺りまで行ったが、採り尽くした後で、馬鈴薯が五つばかり有ったばかりだ。これを入れて牛の味噌焼きとしゃれ込み、「ブランデー」だ。それに舌鼓をうちながら、小田原の模様及び道中記を聞いた。一行は野に寝、寺院(藤沢・遊行寺)に宿り、途中青年団等に厚き待遇を受け、食物やらお茶の饗応(きょうおう)または各沿道の商店よりは餅菓子、果物、蒸(ふか)し芋などを後を追って来て小児にくれたそうだ。(略)当年六歳(満5歳)の女児が炎天下十五里(約60キロ)の道をよく歩いたものよ。(略)偉大なる耐久力に、驚嘆するのみなり。

 この女児が、手記を本紙に提供した佐藤正美さん(75)の母幸(みゆき)さん(1918~2011年)だった。「拾ったげたで歩いたと聞きました。鬼が履くげたじゃないかと思ったくらい大きな、大人のげただったといいます」と佐藤さんは話す。
 録三郎は最終的に小田原に一家で避難することを決断。14日朝9時に横浜駅を発(た)ち、列車で東海道を下った。
「馬入川」と呼ばれた相模川下流では鉄橋が倒壊した

「馬入川」と呼ばれた相模川下流では鉄橋が倒壊した

 茅ケ崎止まりのため下車し、馬入河畔まで約二十五町(約2.7キロ)を徒歩で来たが、街道の混雑はひとかたならず、道の両側は急造の飲食店が軒を並べ、避難客を呼ぶ声かしまし。明治維新当時もかくやと思われたり。

 茶店で一服して渡し舟に向かうが、舟が出ない。

 激流を眺めて嘆息するのみ。河畔に佇(たたず)むこと約二時間、その間、鉄橋の破壊したのや列車の転落しているのを見て驚いた。

 川下では舟が出ていると聞き、渡り賃をはずんで、何とか出してもらった。平塚から国府津まで汽車に乗り、そこからは歩いた。

 惨状は想像以上だ。(略)酒匂の鉄橋(略)も破壊されて橋桁は折れ、線路の形は無かった。(略)まごまごしてはいられず、四つん這(ば)いに這って命からがら渡り小田原へ着いた。

 手記はこのあと月末まで続いて終わっている。
 (原文を現代仮名遣いに直し、句読点を補うなど読みやすくしました)
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関東大震災 横浜からの証言>
前編 発生直後~夜 「一家全滅とまで覚悟」倒壊した家、血まみれの人、激しい炎… 郵便局員が書き残した関東大震災の惨禍
中編 9月1日夜~4日 関東大震災の夜に「朝鮮人襲来」のデマ 「朝鮮人と見ればすぐに一撃、川に投ずるのみ」パニックと不安の記録
後編 9月4日以降 5歳の女の子が、炎天下の60キロを歩いて避難 関東大震災の直後、一家を勇気づけた食と人の親切心(この記事)
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 TOKYO発では昨年、関東大震災100年に合わせ、神保町で被災した青年の手記を紹介する「大震災を見た青年」(8月29〜31日、番外編12月20日)と、日暮里で被災した男性が親戚に書いた手紙を紹介する「下町からの手紙」(12月3、4日)を掲載しました。
 ◆文と写真・加古陽治
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