◆「少々まずかったが…震災直後においては大名の御馳走」
妹が二児を連れて力無くトボトボと保土ケ谷付近を行く姿を発見し、か弱き女の足、年端もゆかぬ二児の身を思い、腹を搔(か)き毟(むし)らるる思いであった。
ようやく玄米一升ばかり探して来た。玄米なりとも、日本米を食したのは六日目に始めてだ。
高輪通りをトボトボと行くうち一軒の酒屋で宝焼酎四合瓶一本買い、蕎麦(そば)屋に入り饂飩(うどん)二杯ずつまで食いながら飲み勇気百倍。(略)砂塵(さじん)の渦巻く中を京橋、日本橋を渡り、迂回(うかい)して丸の内の勤務先へ着いた。(略)互いに無事を喜び合い、昼飯を配給された。見れば茶色の握り飯と赤鯛(あかだい)の煮付けにたくあん茶飯だと思って喜んで食べたら、これは玄米であった。少々まずかったがお菜(さい)が尤物(ゆうぶつ=すぐれもの)で、震災直後においては(略)大名の御馳走(ごちそう)だ。
帰途、味噌(みそ)の味のよいのと、牛肉を買ってきた。それで気が勇み立ち、葱(ねぎ)か馬鈴薯(ばれいしょ)を探すべく、二人で農家をあさりに大船辺りまで行ったが、採り尽くした後で、馬鈴薯が五つばかり有ったばかりだ。これを入れて牛の味噌焼きとしゃれ込み、「ブランデー」だ。それに舌鼓をうちながら、小田原の模様及び道中記を聞いた。一行は野に寝、寺院(藤沢・遊行寺)に宿り、途中青年団等に厚き待遇を受け、食物やらお茶の饗応(きょうおう)または各沿道の商店よりは餅菓子、果物、蒸(ふか)し芋などを後を追って来て小児にくれたそうだ。(略)当年六歳(満5歳)の女児が炎天下十五里(約60キロ)の道をよく歩いたものよ。(略)偉大なる耐久力に、驚嘆するのみなり。
茅ケ崎止まりのため下車し、馬入河畔まで約二十五町(約2.7キロ)を徒歩で来たが、街道の混雑はひとかたならず、道の両側は急造の飲食店が軒を並べ、避難客を呼ぶ声かしまし。明治維新当時もかくやと思われたり。
激流を眺めて嘆息するのみ。河畔に佇(たたず)むこと約二時間、その間、鉄橋の破壊したのや列車の転落しているのを見て驚いた。
惨状は想像以上だ。(略)酒匂の鉄橋(略)も破壊されて橋桁は折れ、線路の形は無かった。(略)まごまごしてはいられず、四つん這(ば)いに這って命からがら渡り小田原へ着いた。
前編 発生直後~夜 「一家全滅とまで覚悟」倒壊した家、血まみれの人、激しい炎… 郵便局員が書き残した関東大震災の惨禍
中編 9月1日夜~4日 関東大震災の夜に「朝鮮人襲来」のデマ 「朝鮮人と見ればすぐに一撃、川に投ずるのみ」パニックと不安の記録
後編 9月4日以降 5歳の女の子が、炎天下の60キロを歩いて避難 関東大震災の直後、一家を勇気づけた食と人の親切心(この記事)