<関東大震災 横浜からの証言>前編 発生直後~夜
関東大震災で被災した横浜の男性の手記「大正震災遭難記」が見つかった。つづったのは、東京・丸の内の郵便局に勤める朝比奈録三郎(ろくさぶろう)=当時(33)。首都以上に激しい揺れに襲われた街で、妻子とともにどう生き延びたのか。遺族から提供された原本をもとに、すさまじい体験を3回に分けてたどる。
◆メリメリと家は倒壊、妻子の頭上には張り板が
1923年9月1日正午前、勤めが休みだった録三郎は、横浜市中区末吉町の自宅の裏庭で薪(まき)を割っていた。妻はお昼の支度にかかり、5歳と2歳の娘は玄関先でむしろを敷いて遊んでいた。薪割りが一段落し、録三郎が座敷に上がろうとした時だった。
メリメリといったと思ううちに家は倒壊した。妻子の頭上には張り板が倒れる、棚の物が落ちる、小児は悲鳴をあげる。(略)第二震が来た時は、一家全滅とまで覚悟を決め、死なばもろともと思った。(略)倒れた家の中をくぐり抜けた途端に家はつぶれた。
近くの家や土蔵は軒並み倒壊している。悲鳴を上げて逃げてくる人たちは、血まみれ、泥まみれだ。まもなく火の手が上がった。
前方より火の手が上がり、黒煙もうもうとして迫り、火の粉は雨のごとく落下する。(略)そのうちに寝具に火が着きはじめ、まごまごしていると生命が危なくなってきた。
大岡川の反対岸に逃れたが、気がつくと妻子がいない。何とか再会できたが、さらに火の手が迫る。
各所より起こりし紅蓮(ぐれん)の炎は激しくものすごく、危険身に迫り、逃げ道に迷ったが躊躇(ちゅうちょ)している場合ではなく、風上に避難。(略)万治病院(磯子区滝頭)の広場まで逃れて来た。
さしもに広き庭内は避難者の群れで埋まり、蟻(あり)のはう余地もなく、妻子の離散を叫ぶ者、負傷した家族をいたわり逃るる者、愛妻愛児の死体を背負い逃るる男、名状しがたく、修羅の巷(ちまた)と化し、ここも安全地帯と認められず。
録三郎らはさらに石川山(中区石川町、山手町周辺)の中腹へと逃れる。
見渡せば市中はもはや火の海と化し、黒煙は中天を覆い、昼夜の見分けもつかず、時しも数間先には一大旋風が起こり、運び出した戸障子といわず物品と言わず巻き上げ、避難者一同色を失い多数の死傷者を出したるもののごとし。かくして夕景ごろより広大な揮発庫に火が移り、幾千万の揮発缶は爆発し始め、百雷一時に鳴り響くごとく火柱は天に注(さ)し、体は熱く、さながら焦熱地獄の感であった。
朝食以来、家族全員水1杯すら口にしていない。しかし、なすすべもなく多くの避難民とともに山腹で夜を過ごすことになった。
(原文を現代仮名遣いに直し、句読点を補うなど読みやすくしました)
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朝比奈録三郎は1890(明治23)年、横浜に生まれた。東京駅前の東京中央郵便局に勤務。1928年に西品川に転居し、65年に75歳で亡くなった。震災3年後の26年に生まれた三女邦子さん(98)は「書くのが好きな人で、何しろものを書いていました」と話す。日本刺繡(ししゅう)や絵画など趣味も多彩だったが口数が少なく、本人からは「震災のことを聞いていないんです」。手記は30歳のころに初めて読んだという。
手記は録三郎の長女幸(みゆき)さん(2011年に死去)の長男・佐藤正美さん(75)に引き継がれ、佐藤さんが現代仮名遣いに直し、ワープロ打ちした。「最初に読んだ時は生々しくてびっくりしました。家族に読んでほしいと思い、読みやすくしました」。原本は公的機関に寄贈したいと考えているという。
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TOKYO発では昨年、関東大震災100年に合わせ、神保町で被災した青年の手記を紹介する「大震災を見た青年」(8月29〜31日、番外編12月20日)と、日暮里で被災した男性が親戚に書いた手紙を紹介する「下町からの手紙」(12月3、4日)を掲載しました。
◆文と写真・加古陽治
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