長崎の被爆体験者 全面解決へ首相先頭に(2024年8月26日『沖縄タイムス』-「社説」)

 原爆が投下されたのは79年前。救済を求め最初の訴訟が提起されたのは17年前だ。長い闘いにようやく一筋の光が見えてきた。全面解決を急ぐべきだ。

 長崎で原爆に遭いながら被爆者と認められていない「被爆体験者」の救済を巡り、厚生労働省長崎県長崎市との協議を始める。

 岸田文雄首相が「長崎原爆の日」の9日、被爆体験者との面会で、同席した武見敬三厚労相に「具体的な対応策の調整」を指示した。

 被爆者の救済策では1957年原爆医療法が制定。95年には被爆者援護法が施行された。長崎では南北に細長い形で「被爆地域」が設定され、域内で被爆した人を援護対象とした。

 被爆者は被爆者手帳を交付され、国からの補償を受けることができる。

 だがその後、域外で援護を求める人が相次いだのである。国が爆心地から半径7~12キロ以内での被爆体験がある人を「被爆体験者」と定義したのは2002年。医療費の一部補助を決めたが、その内容は被爆者と大きな隔たりがある。

 これを受け体験者らは07年、国の区分は「差別」として第1陣訴訟を提起した。

 訴訟は第2陣も起こされたものの19年までにいずれも敗訴。体験者らの域外で放射性物質を含む灰や雨を浴びたとの主張を、裁判所は「客観的な記録がない」と退けている。

 しかし、放射線の人体への影響はいまだに不透明な部分が多い。ましてや戦時中である。どこまで影響があったのか証明は困難だ。

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 原爆の特例区域については、広島からも訴訟が起こされた。米軍が原爆を投下した直後に降った放射性物質を含む「黒い雨」を巡る訴訟だ。

 提訴したのは国が定めた域外で黒い雨を浴びた人たち。全員が「原爆症」と認定され得る病気を発症したが、被爆者手帳は交付されなかった。

 こちらは21年、高裁で原告84人全員が被爆者と認められている。

 当時の菅義偉首相は上告を断念し、訴訟に参加しても、しなくても「同じような事情」にある人々の救済も検討する考えを示した。

 被爆者認定の新基準の運用は22年に始まった。一方、長崎の体験者は対象外だ。厚労省はこの間、援護拡大に否定的な姿勢をとり続けてきた経緯がある。

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 体験者は3月末時点で長崎県内外に6323人。高齢化が進み、最初に訴訟を提起した17年前から約千人減少している。

 健康不安に悩まされている人は多い。「われわれが死に絶えるのを待っているのではないか」との悲痛な声もある。

 岸田首相は体験者の救済について「広島との公平性」にも言及した。首相の発言は重い。厚労省長崎県長崎市との協議を一刻も早く開催すべきだ。

 来年は原爆投下から80年となる。「疑わしきは申請者の利益に」とする援護制度の原点に立ち返り、認定を急いでほしい。