慰霊にふさわしい行動か/長崎式典 米欧大使欠席(2024年8月9日『東奥日報』-「時論」)
犠牲者を慰霊し平和を誓う式典の趣旨にそぐわない政治的問題に発展してしまった。欠席は外交的節度を欠いた過度の意思表示と受け取られかねない。戦争で多数の命が奪われた現地の人々の声に耳を傾けるのが、あるべき外交の姿ではないか。
米英に加え、フランス、ドイツ、カナダ、イタリアの計6カ国大使と欧州連合(EU)代表が同一行動を取った。被爆国の国民感情として、厳粛に営まれる追悼の場に露骨な国際圧力をかけられたようで違和感を禁じ得ない。各国間でどのような話し合いがあったのか明らかにすべきだ。
特に米国は原爆投下の当事者であり、エマニュエル駐日大使の言動は他国と比べて一層の重みを持つ。6日に広島の式典に参加する際、エマニュエル氏は次のようなメッセージを発していた。
「悲劇と苦難の廃虚から立ち上がった広島市は、全世界に不屈の精神と団結の光を届ける灯台です。式典への参列は広島市民が教えてくれる教訓が決して忘れられないようにするための一個人の責務である」。長崎式典への欠席と整合性が取れるだろうか。
事の発端は長崎市の鈴木史朗市長が6月、パレスチナ自治区ガザで戦闘を続けるイスラエルへの式典招待を保留したことだ。即時停戦を求める一方、政治的な判断ではなく「式典を厳粛な雰囲気の下、円滑に行いたいという考えだ」と説明した。抗議活動などが起きる警備上のリスクがあることを懸念したといい、市は7月末までに招待見送りを決めた。
「夏の太陽裂けしと紛ふ白閃に…(2024年8月9日『毎日新聞』-「余録」)
1945年8月9日、長崎に投下された原爆のキノコ雲
「夏の太陽裂けしと紛(まご)ふ白閃(はくせん)にわが父母は焼け給(たま)ひけり」「掌(たなぞこ)に掬(すく)へばあはれ父母の白骨は脆(もろ)くわが膝に散る」。被爆詩人、福田須磨子(ふくだ・すまこ)が残した歌だ。勤め先の長崎師範学校で被爆し、爆心地に近い実家で両親と姉の骨を拾い上げた
▲「私はこうした闘いの中で倒れるかも知れない。しかし私はそれをしなければならない。何故なら私は戦争と原爆を知っているからである」。自伝的小説「われなお生きてあり」の記述である。原爆の後遺症に苦しみながら執筆の傍らで原水爆禁止を訴えた。今年は没後50年に当たる
▲79回目の長崎の「原爆の日」。平和祈念式典で読み上げられる平和宣言で須磨子の詩が引用される。各国代表にも聞いてもらいたいが、鎮魂の場がにわかに騒がしくなった。イスラエル大使が招かれなかったことを理由に欧米の主要国大使が式典欠席を表明した
▲「原爆を作る人々よ! 暫(しば)し手を休め 眼をとじ給え」「もしもあなたの国で実験されたら……やはりあなた方は私達を笑うだろうか」。須磨子は核廃絶の願いが国際社会に届かないことに憤っていた▲被爆者の平均年齢は85歳を超えた。核兵器がもたらした惨禍の記憶をどう次代に引き継ぎ、世界に伝えていくのか。体験に基づく「原爆文学」の重みが増している。
写真家の林重男氏は終戦後まもなく、政府調査団の一員として被爆した広島と長崎を訪れた。昭和20年10月のことだ。爆風と熱線に破壊された2つの街でシャッターを切り続け、廃虚を収めた数多くのパノラマ写真を残している。
▼撮影は危険と背中合わせだった。長崎では、米軍の重機が人の亡骸(なきがら)らしきものを瓦礫(がれき)とともに処分する現場を目にした。カメラを向けた途端、米兵から銃を突きつけられ諦めたという。いまに伝わる写真は惨禍の一部に過ぎないということだろう。
▼林氏は言う。「爆弾のはかり知れなかった破壊力は、形の上ではその痕跡を残していましたが、憎いことに、放射能はどうしても写真には撮影できません」。それが心残りだ、と。その1枚が語ろうとするものは何か。見る側の想像力と耳の感度も、問われているようである。
▼ウクライナへの侵略戦争で核使用をちらつかせるロシア。無言のうちにも核兵器の増強に余念がない中国。自国民の窮乏をよそに核戦力の構築に走る北朝鮮。世界が核廃絶の理想から遠ざかりつつある中で、長崎はきょう79回目の原爆忌を迎えた。
▼犠牲者に静かな祈りを捧(ささ)げる日である。長崎市はしかし、平和祈念式典に駐日イスラエル大使を招かなかった。中東情勢が不透明な折、招待には「リスクがあると判断した」とする市側に対し、日本を除くG7の駐日大使は「式典を政治化されたくない」と欠席する方針という。
▼惨禍の写真の教えは一つ、「長崎を最後の被爆地に」ということだ。日本が核抑止の議論をタブーなしに深めねばならないのも、核を使わせぬためである。原爆忌はその認識を世界の国々と共有する日でもあるはず。長崎市はおのが使命をどう考えるのだろう。
(2024年8月9日『新潟日報』-「日報抄」)
青く澄んだ空に白い夏雲が浮かぶ。連日の酷暑が身にこたえる。あの年の8月も、同じような青空が広がっていたのだろう。戦後79年の夏が巡ってきた
▼60年、70年という節目に当たらないからだろうか。きょうの長崎原爆忌をはじめ、例年この時期はさまざまなメディアで特集が組まれ、平和への思いを新たにする。今年はパリ五輪の熱戦に注目が集まりがちだが、あの時代の記憶が薄れることがあってはなるまい
▼日本の傀儡(かいらい)国家だった旧満州(中国東北部)で終戦を迎えた柏崎市民がいた。国策を信じて大陸に渡った、満州柏崎村の開拓団の人々である。柏崎から入植した200人超のうち、戦後の混乱、飢えや病気などで120人以上が亡くなった
▼衰弱した団員の一人は「今日はえんま市だね。柏崎はにぎやかだろうかねえ」と故郷を思い、息を引き取ったという。満州の守りを強固にし、柏崎の分村を建設する-。国から押しつけられた理想は、敗戦で無残に打ち砕かれた
▼開拓団の一員だった、89歳の巻口弘さんは講演で語った。満州では弟たちを失った。自身は終戦後8年間、現地に取り残され、多くの辛酸をなめた…。証言できる人は今や数少なくなった。体験者の言葉を引き継いでいかなければ。炎天の下、改めて胸に刻む。
79年前のきょう、長崎に原爆が投下された。ウクライナやパレスチナ自治区ガザで戦火がやまず平和への希求が各地で高まる中、被爆者らが静かに祈りをささげるはずの平和祈念式典が国際情勢に翻弄(ほんろう)される事態に陥っている。
長崎の平和祈念式典には、日本を除く先進7カ国(G7)と欧州連合(EU)の駐日大使が不参加の方針だ。長崎市の鈴木史朗市長が「不測の事態発生のリスク」を考慮し、イスラエルを招かないことが理由だ。同市はウクライナ侵攻後、ロシアの招待を見合わせている。鈴木市長は政治的な意図を否定するが、G7各国は「イスラエルとロシアを同列に扱うのは許容できない」などと反発を強めている。
広島市は6日の式典にイスラエルを招いた一方、パレスチナは招待しなかった。G7やEUの大使は参列した。両市の対応が分かれ各国を戸惑わせた側面は否めない。G7は事前に懸念を示す書簡を送っており、鈴木市長は各国の理解を得るための丁寧な説明を尽くすべきだった。
理解に苦しむのが政府の対応だ。林芳正官房長官は「(式典は)長崎市の主催であり、政府としてコメントする立場にない」と述べた。平和を願う式典への不参加の広がりは避けなければならない。政府はもっと主体的に関与すべきだ。
首相は核保有国と非保有国との「橋渡し役」になると言う。核抑止論に頼る限り、世界は核の恐怖に脅かされ続ける。唯一の戦争被爆国である日本は、被爆者が求める核兵器禁止条約に参加し核廃絶を今まで以上に強く訴える。平和式典はその姿勢を示す場でなければならない。
長崎式典と米欧大使 「招待」の意味、問い直そう(2024年8月9日『中国新聞』-「社説」)
きょう長崎市で平和祈念式典が営まれ、鈴木史朗市長の平和宣言を軸に、核兵器廃絶を世界へ訴える。核を巡る状況が悪化していく中で、広島と同じく重要な場となろう。海外の政治的思惑が、そこに影を落とすなら残念だ。
パレスチナ自治区ガザでイスラム組織ハマスと戦闘し、おびただしい民間人犠牲を生んでいるイスラエルを、長崎市は式典に招待しなかった。それを理由に、米国、英国をはじめ日本を除く先進7カ国(G7)などが駐日大使参列を見送ることになったのだ。
米国が福岡の首席領事を派遣するなど各国とも代表は出すようだ。過去にも代理が参列するケースはあるため、式典運営上の礼まで失したわけではなかろう。とはいえ長崎市の判断への不満を目に見える形で示したことになる。
この先進6カ国と欧州連合(EU)の大使らが連名で、イスラエルを除外すれば高官参加は困難とする書簡を7月19日付で市に送っていたという。ウクライナ侵攻を理由に招待しないロシア、ベラルーシとイスラエルを同列に置くことを懸念する内容だ。
米英などはガザの停戦を求めつつ、基本的にはイスラエル側に立つ。その姿勢が露骨に持ち込まれることには違和感がある。連名の書簡など行き過ぎだろう。国際情勢がどうあれ、少なくとも原爆を落とした米国は広島と長崎の式典にできる限り、高官を出席させるべきではないか。
広島は招待し、長崎は見送り―。ことしは両被爆地が難しい判断を求められた。確かに戦争当事国として除外するロシアなどとの兼ね合いをどう説明するかが問われる。
鈴木市長はイスラエルの不招待に関して「政治的な理由ではない」と述べて、不測の事態のリスクを挙げた。ただ足元の被爆者や市民に、国際社会の非難を浴びつつ戦闘を続ける同国への批判が強いことも背景かもしれない。一方で広島市は市内外の異論を押して招待に踏み切った。
一つ言えるのは式典の主催は広島市、長崎市であり、あくまで自主的な判断に基づくべきだということだ。ウクライナ侵攻後の2022年、ロシアなどを招くのを見送った際は外務省の招待反対が影響したとされる。本来は横やりを入れられる話ではない。
一連の問題を踏まえ、考えることは多い。そもそも8月6日と9日には何のために式典を営み、誰を招くのか。
原爆犠牲者を悼む場であることは疑いない。各国の代表に核廃絶・核軍縮と平和構築を発信する意味もまた強まっている。核保有国と同盟国が持ち出す「核抑止論」からの脱却を式典で正面から唱え始めたのが象徴的だろう。
目の前の状況にかかわらず全ての国・地域を招くべきだという意見がある。被爆80年に向け、広島市は海外代表の招待基準を見直す方針を示した。被爆地と世界がどう思いを共有していくか。原点に立ち返って議論を深めたい。
79年前の記憶とともに悲しみの夏が巡って来た。当時を生きた人が減り「記録」と化しているかもしれない。だが遠くない昔に命が軽く扱われ、多くの有為な人材を失った時代があったことを伝えねばならない。いつ繰り返されてもおかしくないのだから。
将棋の実力制第4代名人・升田幸三(1918~91年)は1957年、当時の全タイトルを独占し三冠となった。熱狂はすさまじく棋界の黄金期の一つだ。放言癖も魅力だった。終戦後に連合国軍総司令部(GHQ)で5、6時間、将棋の擁護論をまくし立てたというから、講談師でも一流になれそうだ。
自著の将棋の話は盤外戦も含め勇ましいが、母親の思い出は浪花節的になる。戦況が悪化した43年、召集され太平洋の島へ向かうことになった。海域は敵艦が待ち構え、目的地到達も危うい。
母が面会に駆けつけたが、出発後で間に合わなかった。落胆し息子が通ったであろう道に座り込み、荒れた地面を何度もさすった。やがて手から血がにじんだ。雄弁な升田に限らず、こんな後日談はあちこちであっただろう。多くの涙とともに。
6日の広島に続き、長崎の原爆の日を迎えた。現在の広島県三次市で育った升田は13歳で家出し、最初に着いたのが広島市だった。縁のある町で、被爆後間もない姿も見た。残した言葉は少ない。筆舌に尽くしがたい惨状が、豪放磊落(らいらく)な男をも黙らせたのだろうか。(板)
風呂上がりにかみそりを当てる山口仙二さん(「写真集 長崎の証言」より。村里栄さん撮影)
「ノーモア・ヒバクシャ ノーモア・ウォー」。原爆に焼かれた自身の上半身の写真を手に叫ぶ姿は、被爆者の存在と切なる願いを世界に知らしめた。
■ケロイドにかみそり
それは山口さんがケロイドのある首筋にかみそりの刃を当てている写真で、39歳だった1970年に撮影された。
撮影した村里栄さん(90)=長崎市=によると、たまたま風呂上がりを撮らせてもらったという。
被爆者の写真集「長崎の証言」の撮影で山口さん宅を訪ねた。玄関先で散髪を終え、風呂場に向かう山口さんについて行った。風呂から出ると、おもむろにかみそりを手にした。
「ケロイドには毛なんか生えないと思うんだけど、よく見たらひげではないけれど、産毛みたいなものに当てておられたんです」
ケロイドにかみそりの刃を当てたのは撮影の演出ではない。山口さんの日常だった。
あの日から何十年たとうとも、被爆者の暮らしから原爆の傷は消えない。写真の山口さんはそう訴えているように思える。
被爆者の老いが進み、79年前のことを証言する人は少なくなる一方だ。被爆者健康手帳を持つ人は10万人余りで、80年代の3分の1以下になった。平均年齢は85歳を超え、地域から被爆の記憶が少しずつ薄れていく。
■犠牲者に背中押され
展示品の中に、当時教頭だった故荒川秀男さんの体験記がある。教職員約30人が犠牲になる中で、荒川さんは奇跡的に生き残り、戦後は城山小の校長を務めた。
被爆から25年後の65歳の時、亡き同僚の思い出を原稿用紙46枚につづった。体験記を残した動機が日記に書かれている。
<年の経過と共に原爆の悲惨と殉難職員の悲惨も忘れられていくことと思うのである/殉難児童と職員を永久に記録しこの悲惨事を繰り返すことのないように>
(1970年6月27日)
息子の和敏さん(90)は「在職中はいかに原爆を忘れるかという時期が続いた。退職後、原爆で亡くなった先生方に背中を押されるようにして書いたんでしょう」と胸中を推し量る。
記録に込めた故人の内面に触れることができれば、被爆の実相は立体的に伝わるだろう。
きょうの平和祈念式典は、日本を除く先進7カ国(G7)と欧州連合(EU)の駐日大使が出席しないことになった。世界で絶えることのない紛争の影響だ。各国がそろって核兵器廃絶へ向かうことが困難な現実も確かにある。
昭和49(1974)年春。比ルバング島から帰国した残留日本兵、小野田寛郎(ひろお)さんに世間は沸いた。30年ぶりの里帰りに取材が殺到した4月3日、ひっそりと息を引き取った女性がいた。小野田少尉と生まれた年も月も同じ52歳。長崎の被爆詩人、福田須磨子である
◆原爆で一家を失い、自身も後遺症に苦しめられ生活は困窮した。辛苦に満ちた戦後の歳月は同じでも、一躍「時の人」となり厚遇された密林の兵士に比べ、気の毒なほど落差があった。彼女の死後支給されたのは、被爆者一律のわずかな葬送料と生活保護の日割りだった
◆不穏な国際情勢に核抑止論は勢いづく。〈あの原爆が 永遠の平和の警鐘なら/人類の礎(いしずえ)と むやみに嘆かないけど/何故に依然と その手を休めず/昨日よりは今日 今日よりは明日と/全人類の破滅へ急テンポに進むのだ〉。須磨子の「原爆を作る人々に」という一編に、ため息を同じくする。(桑)
流れゆく時間(2024年8月9日『s長崎新聞』-「水や空」)
▲人の一生を1日24時間に置き換えてみる。1950(昭和25)年の女性の平均寿命から割り出すと、福田さんが被爆した23歳といえば人生の3分の1、時刻にして午前8時を回ったあたりだろう。希望の朝の年頃だったが、あの日を境に人生は一変する
唯一の被爆国として、日本は責任ある役割を務め続けることができるのか。長崎に原爆が投下されてから79年となった。6日の広島に続き、ことしの原爆忌は、ウクライナやパレスチナでなお戦闘が続き、為政者から核兵器の使用も辞さないとの発言さえも出てくる中で迎えた。
核廃絶への日本の姿勢がいまほど問われていることはない。日本政府は核兵器禁止条約参加への否定的立場を見直し、国家間の溝を埋める努力を進め、被爆者の切実な願いである核なき世界の実現に全力を挙げる必要がある。
広島市の松井一実市長は6日の広島市での式典の平和宣言で各国の軍拡競争に触れ「国際問題を解決するためには拒否すべき武力に頼らざるを得ないという考えが強まっていないか」と懸念を示し、このような状況下で市民社会の安全・安心を保つことはできるのかと問うた。市民感覚に即した懸念の表明だろう。緊迫する東アジア情勢を理由に、急激に軍備強化が進む沖縄で暮らす私たちにとってもその心配は同様だ。
広島選出の岸田文雄首相は、日本は核保有国と非保有国の橋渡し役を務めると述べてきた。であるならば、欧州と中東で戦闘と殺りくが続く中で日本はその役割を全うすべきである。ところが6日の広島市での平和記念式典で岸田首相は昨年同様、核兵器禁止条約に言及しなかった。
広島市の松井市長は平和宣言で来年の核禁条約締約国会議にオブザーバー参加し、締約国となるよう求めたが、政府は応じようとはしない。
逆に核兵器を含めた米国の戦力で日本防衛に関与する「拡大抑止」の強化に日本政府は懸命である。
日本がこのまま米国追従を貫けば、核なき世界への議論で説得力を失う。核廃絶に向け主権国家の在り方が問われている。迫られているのは政府だけではない。原爆の悲劇を知る国民として、忌日の誓いにとどめず、不断の取り組みを政府に促す必要がある。
木の葉を押しのけて(2024年8月9日『琉球新報』-「金口木舌」)
▼6月、6人の78歳の誕生日が祝われた。「20歳まで生きられない」と言われた子どもたち。その笑い顔に「きのこ雲の下で生まれた小さな命ではあるが、木の葉を押しのけて成長するきのこのように元気に育ってほしい」という、会の名称に込めた親たちの願いが重なる
これに対しエマニュエル駐日米大使は「政治的な決定であり、安全とは無関係だ」と強く反発する。
エマニュエル大使らは6日の広島の式典には参列した。長崎の式典に欠席すれば、その行為自体が露骨な「政治的決定」となる。
米国は広島、長崎に相次いで原爆を投下した国である。戦争で原爆を使用した国は他にない。
イスラエルが招待されていないことを理由に式典を欠席するのは「政治的な、あまりに政治的な短慮」と言うほかない。
■ ■
民間人の死者、とりわけ子どもや女性の犠牲があまりにも多い。
だがイスラエルによる攻撃はやまず、犠牲者は4万人に迫っている。
自衛権を理由に、民間人の犠牲を仕方のない「付随的損害」と見なして容認するのは、国際人道法に反する明らかな間違いだ。
■ ■
何をしたいのか、何が言いたいのか。政府からは被爆国としての独自のメッセージが伝わってこない。
国家安全保障に安易に寄りかかるのではなく、その限界を明らかにし、人々の安全が重視されるような国際規範を確立していくことが、核廃絶への第一歩である。
分断越え非核への道を確かに(2024年8月8日『日本経済新聞』-「社説」)
広島、長崎への原爆投下から79回目の夏を迎えた。長崎を最後の戦争被爆地にする決意を新たにし、世界に共有を呼びかけたい。
非政府組織(NGO)の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)によると、2023年の世界の核軍備支出は前年比13%増えた。中国や北朝鮮が核戦力を増強するなか米国の「核の傘」なしに日本の安全を守れないのも事実だ。
追い風はある。各国の人々の平和への関心の高まりだ。広島平和記念資料館の23年度の入館者数は198万人と過去最多で、その3分の1を外国人が占めた。長崎原爆資料館の入館者も同年度は22年ぶりに75万人を超えた。
昨年秋には長崎の被爆者や被爆2世、3世らが訪米し、約20カ所で大学生や高校生らと対話した。被爆者で団長を務めた朝長万左男さんは「核廃絶を倫理的な面から核保有国の若者と一緒に考えることが大事だと感じた」と話す。
あの日、長崎の上空で炸裂(さくれつ)した一発の原子爆弾によって奪われた数多(あまた)の生命を悼み、生き残った被爆者の過酷な人生に思いをはせ、核兵器を憎み、あらゆる戦争の根絶を誓う-。8月9日の平和公園はそんな空間だ
▲その場所で静かに目を閉じて祈る資格が、あなたやあなたの国にあるか、と問うたわけではない。だが、そう受け取られてしまったのかもしれない。9日の平和祈念式典にイスラエルを招かないと決めた長崎市の判断に“世界”が反発していた
▲日本を除くG7の6カ国と欧州連合(EU)の大使が式典への出席を見合わせることになりそうだ。〈イスラエルを招待しなければ、高官の参加は難しくなる〉と“警告”する連名の書簡が長崎市に届いていたことも明らかになった
▲被爆地が発するメッセージの重さを改めて思う…と読み解くのは気楽に過ぎるのだろう。ただ、この事態を想定できなかったか、と書くのは後出しジャンケンだと感じる。イスラエルが出席した広島で混乱がなかった…それは結果論だ
▲教訓はかみしめなければならない。だが、過剰に動揺することなく9日の朝を迎えたい。(智)
原爆忌 被害者の肉声伝えていきたい(2024年8月7日『読売新聞』-「社説」)
原爆投下から79年が経過し、被爆者の肉声を聞ける時間はそれほど残されてはいない。
被害の実相を国際社会にどう伝え、後世に残していくかは、唯一の被爆国である日本にとって重い課題だ。
広島、長崎両地の被爆者の平均年齢は、85歳を超えている。
このため来年からは、平和記念資料館などに、被爆者が様々な体験を語った映像と音声が記録された端末を置く予定だ。
核を使うことがいかに残虐か、国内で語り継ぐだけでなく、多くの国に伝えていくことが大切だ。そのためには被爆者の声を様々な言語に翻訳し、外国人も端末を利用できるようにしていきたい。
広島では昨年、先進7か国首脳会議(G7サミット)が開かれ、「核なき世界」を目標とした「広島ビジョン」が採択された。
核の増強だけが危険なわけではない。より深刻なのは、核を「使える兵器」と考えるような傾向が強まっていることだ。
同時に、核の使用が自国にとってもどれほどの惨害を招くか、核保有国の指導者たちに認識させることが重要である。
式典に出席した岸田首相は「核軍縮の機運を高めるべく、国際社会を主導していく」と述べたが、そのための取り組みは十分か。
被爆者が活動できるうちに国連総会や様々な国際会議に出席してもらい、各国の要人に核の被害の恐ろしさを直接、訴えていくことは有効だろう。
岸田首相と8・6 核なき世界への針路、再考を(2024年8月7日『中国新聞』-「社説」)
式典後の記者会見の発言には驚かされた。米国が核兵器を含む戦力で日本防衛に関与する「拡大抑止」について、「国民の命や暮らしを守るため大変重要」と評価した。さらに、その評価が核なき世界を目指す道筋に逆行しないとの認識も示した。東アジアの安全保障環境は確かに厳しい。しかし、米国の差し出す「核の傘」をありがたがっていて、核廃絶に向けた議論を主導できるのだろうか。
被爆者7団体が連名で首相に提出した要望書は怒りに満ちていた。
昨年の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)でまとめられた核軍縮文書「広島ビジョン」が、核抑止論を肯定していることに落胆が収まらないと表明。5月に米国が実施した臨界前核実験に抗議しないのは核なき世界を目指す姿勢と矛盾すると指摘した。
被爆者の不満の背景には、日本が米国の核政策に従属していることがある。「主張すべきは主張する主体性」を求めたのは当然だ。
首相は、来年3月にある核兵器禁止条約の第3回締約国会議へのオブザーバー参加にも「核保有国を動かさないと現実は動かない」と否定的な立場を繰り返した。首相が掲げる核保有国と非保有国の「橋渡し」に国際社会の期待は小さくない。しかし、条約に背を向けたままで具体的な成果が得られるとは思えない。
きのうは、核保有国の米英仏各国を交えたハイレベルのFMCT友好国(フレンズ)会合を今秋に開くと明らかにした。首相なりに核保有国も受け入れられる形を模索したのだろうが、日本を含め12カ国しか参加していない。どこまで現実味があるのだろう。
松井市長は、混迷する世界情勢の下で核抑止力に依存する為政者に政策転換を促そうと国際社会に呼びかけた。湯崎知事は、核廃絶に向けて資金や人材をもっと投じなければならないと訴えた。
あの日の熱さ(2024年8月7日『中国新聞』-「天風録」)
26・8度。あの朝8時15分の広島の気温が江波山の観測所に記録されている。現代人なら慣れっこの暑さだろう。きのうの同時刻は既に30度近かった。想像してみる。直後に3千~4千度の炎に包まれ、燃え上がった街の熱さを
▲〈焦熱(しょうねつ)地獄〉。妻子を捜して原爆投下後の街を歩いた小倉豊文さんは著書「絶後の記録」に記した。見渡す限りの火と黒煙。多くの人は肌が焼けただれ、横たわっていた。高熱のがれきの下で事切れた女性。幼児は死んだ母の口に何度も水を運んだ
▲地獄の熱さの中で、夏の暑さはもはや問題ではなかったのだろう。〈太陽の熱より熱い。蓋(ふた)をしない大きな火消し壺(つぼ)のなかを歩いているようだ〉。死や苦しみのまとわりついた体感温度が、小倉さんの記述から伝わる
▲「目を閉じて想像してください」。きのうの平和記念式典でこども代表の2人は呼びかけた。ジョン・レノンさんの名曲「イマジン」の歌詞にもある通り、平和への道は想像から始まる
広島は6日、「原爆の日」を迎えた。9日は長崎に原爆が投下された日だ。
広島の原爆投下後に降った「黒い雨」では、2020年の広島地裁と21年の広島高裁が、国が指定した範囲外の人も被爆者と認め、救済対象を広げた。これを受け国が新しい基準をつくったが、それでも被爆者と認められなかった人たちが新たに裁判を起こしている。
被爆地への関心は高まっている。広島市の原爆資料館の23年度入館者は、過去最高の約198万人に上った。特に外国人の増加が著しく、約67万人と3分の1を占めた。最大の理由は、23年5月に開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)による関心の高まりだ。
混雑対策として今年3月からチケットのネット予約を始めたものの、それでも窓口は訪日客などで長い行列ができることが多い。
資料館は19年、展示内容を大きく変えた。「被爆の実相」が分かるように、破れた衣服や遺品などの実物や、遺影の展示を増やし、被爆者がどんな人生を歩み、どのように亡くなったかを強く訴える内容になった。原爆投下に至る国際情勢の説明も詳しくなった。
新しい施設もできている。原爆資料館の目の前に22年に開館した「被爆遺構展示館」では、原爆で消えた住居の跡を見ることができる。今は平和記念公園になっている場所の掘削調査で見つかったもので、当時の暮らしが伝わってくる。
長崎市でも、長崎大が今年3月、工事に伴う調査で、原爆による被害を受けた旧長崎医科大の施設の一部を確認したと明らかにした。新たな被爆遺構として、保存を検討している。原爆が過去の話ではないことがよく分かる。
被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に参加する36都道府県の団体に共同通信が実施したアンケートで、約4割が会の存続に向けた課題として「会員の高齢化」を挙げた。約8割が「運営に被爆2世や被爆者以外が関わっている」と回答。運動を続けていくには次世代の力が欠かせない。
広島・長崎両市が、被爆者に代わり体験を伝える伝承者や証言者の育成に力を入れているのも、その表れだ。日本政府に核兵器禁止条約の批准を求めるため4月に発足した「核兵器をなくす日本キャンペーン」は被爆者だけでなく、20代の大学生ら若い世代も加わっている。こうした動きを広げていくことが力になる。
79年前のきょう、米国は広島に原爆を投下した。
たった1発でその年のうちに14万人が、3日後に落とされた長崎では7万4千人が亡くなった。生き延びた人々も長年、重い後遺症に苦しんでいる。
投下直後に降った放射性物質を含む「黒い雨」に遭った人への救済も終わっていない。
世界には今なお1万2千発以上の核兵器がある。核が存在する限り、人類は破滅の危機にさらされている。人間とは共存できない絶対悪であることを、改めて胸に刻みたい。
核兵器を使ってはならないという根源的な規範が揺らぎ、核戦争のリスクは高まっている。
核なき世界に向けた歩みを、決して止めてはならない。
■人類脅かすどう喝だ
広島、長崎以降の世界は、核は「使えない兵器」であり「使う」と威嚇することさえタブーとしてきた。プーチン氏による核使用の威嚇は、人類への挑戦だと言うほかない。
イスラエルの蛮行が、対立するイランを刺激して再び核開発を進める懸念もある。
アジアでは中国が急速に核戦力を増強し、実戦配備も進めている。核・ミサイル開発を加速させる北朝鮮には、ロシアの支援が取り沙汰されている。
核兵器は「持った者勝ち」であるとの誤った認識を広げてはならない。決して使用してはならないし威嚇にも使えない、とする強固な規範を確立する取り組みが急務である。
■抑止論では破滅導く
核軍拡が進む背景には中ロや北朝鮮、イランといった国々と日米欧の対立の激化がある。
バイデン政権が長射程化するミサイルのドイツ配備を発表すると、プーチン氏は直ちに新たなミサイル配備を打ち出した。
米ロの中距離核戦力(INF)廃棄条約がトランプ政権下の2019年に失効後、核軍縮の枠組みは脆弱(ぜいじゃく)だ。最後に残った新戦略兵器削減条約(新START)も2年後に期限が切れる。
歯止めがないまま軍拡競争が展開していく恐れがある。
核軍拡を支えるのが抑止論だ。相手が攻撃してきた時にそれを上回る反撃を行う意思と能力を示すことで、相手を思いとどまらせる考え方である。
昨年、広島で開催された先進7カ国首脳会議(G7サミット)でも、核抑止の重要性を訴える文書を採択した。
だが抑止論は国や指導者が理性的な判断をすることが大前提で、破滅を恐れない指導者には通用しない不確実性がある。
抑止論に依拠する限り、誤情報や誤作動など偶発的な核戦争のリスクも高くなり、人類は核の恐怖にさらされ続ける。分断が深まる国際情勢の下では、その恐怖がさらに現実味を帯びていっても不思議ではない。
■日本が廃絶主導せよ
日米両政府は先週、米国の核兵器を含む戦力で日本への攻撃を思いとどまらせる「拡大抑止」の強化で合意した。
核廃絶に取り組む責務を放棄するのは、言語道断だ。
被爆者たちの平均年齢は85歳を超えた。核なき世界への思いは切実さを増している。
ところが日本政府は米国に配慮し、一貫して条約に背を向けている。次回の締約国会議にはせめてオブザーバー参加し、その先の批准への道筋を探るべきだ。それが被爆者たちの願いに応える唯一の方策である。
生ましめんかな(2024年8月6日『北海道新聞』-「卓上四季」)
原爆投下からまもない広島。傷ついた人々が、壊れたビルの地下室で身を寄せ合っていた。血の臭い、死臭、うめき声が満ちている。そこにささやきが聞こえた。「赤ん坊が生まれる」
▼<地獄の底>のような暗闇で妊婦が産気づいた。広島の詩人、栗原貞子さん(1913~2005年)の「生ましめんかな」が描く。マッチもろうそくもない。どうすればよいか。そのとき、さっきまでうめいていた重傷者が声を上げた。「私が産婆です。私が生ませましょう」
▼<生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも>。新しい生命が誕生し、救い手は夜明けを待たずに亡くなった
▼作品は実話に基づく。赤ちゃんのへその緒は裁縫ばさみで切り、産湯はトタン板をたらいにしてつからせた。伝え聞いた詩人は極限下の命のリレーを記録した。吉永小百合さんの朗読などを通じ、広く知られる作品となっている
▼被爆者だった栗原さんは訴えた。戦争につながるなら、どんなささやかなことでも協力してはならない。平和につながるならどんなことでも協力し、人間らしく生きられる世界を創らなければならない―。かみしめたい。
漫画家こうの史代さんの代表作「夕凪(なぎ)の街 桜の国」は、原爆被害に遭った女性らのその後の人生を描き、市井の人々の「終わらない戦争」を静かに告発する。第1話「夕凪の街」は原爆投下から10年後の広島が舞台。疎開中の弟を除き一家で被爆した皆実(みなみ)は母親と2人で暮らしていたが、職場の男性との恋も成就しようというとき、原爆症で23歳の短い生涯を終える。
「嬉(うれ)しい?/十年経(た)ったけど/原爆を落とした人はわたしを見て/『やった! またひとり殺せた』/とちゃんと思うてくれとる?」。悔しさと、「落とした人」への痛烈な皮肉が入り交じった最期のモノローグが胸を突く。
八戸に住む19歳の平(ひら)湧翔(ゆうと)さんが9日に行われる長崎の平和祈念式典に、被爆者遺族の本県代表として参列すると先日の本紙が伝えた。曽祖母と祖母が被爆体験を持ち、母の導きで原爆の悲惨さを学んだという。「記憶継承のつなぎ役に」の言葉が頼もしい。
こうのさんも過去の取材に「原爆について語る人を決めてはいけない(略)みんなが自分の言葉で語ることが大切」と話していた。地道でも継承の力となるはずだ。
広島への原爆投下から、きょうで79年。9日には長崎も「原爆の日」を迎える。
事前に発表された骨子によると、宣言はロシアのウクライナ侵攻の長期化やイスラエル・パレスチナ情勢の悪化に触れ、「国家間の疑心暗鬼により、世論にも武力に頼らざるを得ないとの考えが強まっていないか」と問いかける。
しかし、ヒロシマの声は日本政府にさえ、十分に届いているとは言い難い。
日米両政府は先月、米国が核兵器を含む戦力で日本の防衛に関与する「拡大抑止」について初の閣僚会議を開き、同盟の抑止力強化で一致、合意文書を交わした。
拡大抑止は同盟国への攻撃に対し、通常兵器のみならず核兵器も用いて報復する意思を示し、攻撃を思いとどまらせようとするものだ。当然、相互不信と軍拡の連鎖を生むリスクは避けられない。
運動の先頭に立ってきた広島、長崎の被爆者が強く憤るのはもっともだろう。
ところが先月、これとは相いれない日米合意があった。米側が核を含む戦力で日本防衛に関与する「拡大抑止」を現状より強化する内容となっている。
ウクライナに侵攻するロシアは核兵器使用をちらつかせる威嚇を繰り返す。パレスチナ自治区ガザでイスラム組織ハマスと戦闘を続けるイスラエルでは、閣僚が核爆弾使用も選択肢と言い放った。核兵器使用の懸念が近年になく高まっている。
ロシアと海を隔てた隣国である日本の安保環境が厳しさを増しているのは確かだ。北朝鮮は核兵器の搭載も可能とされる弾道ミサイルの発射実験を繰り返す。中国の海洋進出も活発化している。その中で米国の核の傘がどこまでけん制になるのかは見通せない。
被爆地から「核兵器廃絶に逆行する」「戦争に近づく」など厳しい声が上がる。広島市の被爆者団体代表は「核で平和を保ちたい姿勢を鮮明にしている。核の傘に頼らない方向になってほしい」と求めた。長崎市の被爆者団体代表は「核使用のハードルがどんどん下がっている」と危機感をあらわにした。
一方、広島市は「一刻も早い停戦を求める」との文言を盛り込んだ招待状をイスラエルに出した。「全ての国の招待が原則」と説明している。しかしこれはロシアなどに対する姿勢とは異なる判断。被爆地も矛盾を抱えている。
ロシアやウクライナ、イスラエル、パレスチナがそろって出席するなら、平和式典の重みは格段に増すだろう。決して核兵器を使ってはならないという被爆地からのメッセージをより多くの国や地域に伝えられる機会を大切にしたい。
日本は今後も「核廃絶」の旗を降ろさず、被爆者が求める核兵器禁止条約への参加を実現しなくてはならない。日本と同じように米国の核抑止に頼るドイツなどは既にオブザーバー参加している。被爆国である日本の不参加という大きな矛盾を早く解消してもらいたい。
▼核兵器はたった一発で街を焼き尽くし、人々を殺りくする。その恐ろしさを、79年前に米軍による原爆投下を受けた広島、長崎の人たちやその遺族らが訴え続けている。にもかかわらず依然として軍拡競争が繰り広げられる現状に今更ながら暗たんたる気持ちになる
▼本県に住む被爆者らが広島や長崎で目の当たりにしたことを記録した「秋田の被爆者」(2005年発行)と題した本に惨状が赤裸々につづられている。被爆者とその家族でつくる秋田県原爆被害者団体協議会がまとめたものだ
▼「道路には黒こげになり、男女の区別さえつかない人たちが逃げまどっていました。電線が垂れ下がり、焼けただれた馬が横たわっていました…現実の地獄図でした」。本当は一日も早く忘れてしまいたい忌まわしい光景を、後世に伝えるために書き残さなくてはと懸命に筆を執った人たち、それらを一冊にまとめた協議会の方々の苦労に頭が下がる
SF作家の小松左京は、人間の生物としての最も大きな武器は知力ではなく、洞察力だろうと指摘する。そうでなければ複雑化していく文明の中で相手を思いやり、子孫を残すことはできないはずだと
▼一方で、人間は歴史の中で目を背けたくなるような行為もしてきた。小松は巨大化した文明が、人間の洞察力では処理できないほどになっているのではないかと危惧していた(「宇宙にとって人間とは何か」PHP新書)
▼79年前の8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。爆発とともに強烈な熱線と放射線が放出され、爆心地周辺の地表面温度は3千~4千度に達した。死亡者は正確に把握されていないが、その年の12月までに約14万人が亡くなったとされる
▼倒れた家の下敷きになり、生きながら焼かれた人が助けを呼ぶ。熱風で大きなやけどを負い、皮膚をぶら下げたままの多くの人があてどなくさまよう。被爆した人の証言記録を読むと、地獄とも言える惨状が目に浮かんでくる
広島はきょう6日、長崎は9日に戦後79回目の原爆の日を迎える。被爆者の積年の願いとは裏腹な国際社会の潮流に、核廃絶の道の多難な現在地を思い知らされる。唯一の被爆国として政府、政権は核兵器のない世界を、理想から現実に近づける使命を置き去りにしてはいないか。次世代への責任として不断に問うていく必要がある。
スウェーデンのストックホルム国際平和研究所によると、今年1月時点の核弾頭数は推計1万2121発に上る。ロシア5580発、米国5044発で、両国で依然、9割近くを占めている。中国はこの1年で90発増の500発、北朝鮮は20発増の50発に達したとみられるなど、核軍備の拡大と実戦配備が進む。
ロシアはウクライナに対して核の威嚇を続ける。台湾情勢は不透明感を増す。不毛な核戦力の拡大は、保有によって互いをけん制し、使用を躊[ちゅう]躇[ちょ]させる核抑止の次元を超え、一触即発の危機を高めかねない。にもかかわらず、分断が進む国際社会にあって国連は機能不全が取り沙汰され、歯止めのない現実は事実上、放置されたままだ。
日米両政府は先月、核を含むあらゆる戦力で米国が日本の防衛に関与する「拡大抑止」を強化することで合意した。米国の「核の傘」を軸にした日本の抑止力を誇示し、ロシアや中国、北朝鮮に対抗する狙いがあるという。
岸田文雄首相はG7広島サミット(先進7カ国首脳会議)で、核兵器のない世界の実現を強調する共同文書の取りまとめを主導した経緯がある。一方で、防衛目的の保有を正当化した文書の矛盾も指摘された。それでも、核廃絶を不変の目標に据えてG7、とりわけ日本が国際社会への働きかけを強めようとしているなら、道はまだある。核兵器のない世界をいくらうたっても、努力の痕跡が見えない中では実効性が疑われる。
核兵器禁止条約は発効から3年を迎えた。現在、70カ国・地域が参加しているが、厳しい安全保障環境下、賛意拡大は正念場にある。
大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼け跡から南に向かって写す。支局は木造で完全に焼失した。中央左寄りに広島県農業会広島支所、左端には日本貯蓄銀行広島支店の残骸が見える(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目39(現広島市中区大手町2丁目5)で1945年8月9日、国平幸男撮影
「原爆の日」を広島はきょう、長崎は9日に迎える。
1945年8月、米軍が投下した原子爆弾は、二つの都市を一瞬にして破壊し、合わせて20万人を超える市民の命を奪った。
太陽の温度に迫る高熱、猛烈に吹き荒れる爆風と炎……。破壊力と残忍性は他に類を見ない。
壊滅的な損害を与え、非人道的な結末を招く核兵器は、二度と使われることがあってはならない。
「核兵器のない世界」は日本だけでなく、国際社会が目指すべきゴールである。平和を願うこの日に改めて確認したい。
だが、厳しい現実が立ちはだかる。核兵器を持つ国は戦力を増強させ、拡散の懸念も広がる。世界は新たな核競争の時代にある。
新しい軍拡競争の時代
中国は2030年に1000発に達するとされ、50発を持つ北朝鮮は開発を加速させる。イランも核爆弾を製造できる態勢にある。
核戦争のリスクも高まる。ウクライナに侵攻したロシアは戦場での核使用を想定した演習を実施し、核実験再開も辞さない構えだ。
欧米の多くの研究機関が米露核戦争の勃発に警鐘を鳴らす。米プリンストン大は、ロシアが一発でも発射すれば数時間のうちに全面戦争に発展し、9000万人以上が死傷すると予測する。
一触即発の事態をどう回避するか。必要なのは、危機を直視する外交だろう。
米露は新戦略兵器削減条約(新START)交渉の枠組みを足場に、核の使用に歯止めをかける必要がある。
中国を交えた交渉も必要だ。武力衝突が国際経済に与える甚大な影響を互いに理解することが、対話の糸口になる。
後押しする手掛かりがある。核抑止力を絶対視する「神話」が崩れつつあることだ。米国の世論調査の結果が表している。
何度でも報復できるだけの強大な核戦力を持つことで、相手に先制攻撃をためらわせる効果を狙うのが核抑止力だ。
「非常に効果的だ」と回答したのは、冷戦期を過ごした世代の31%に対し、冷戦後生まれの若者世代は15%にとどまった。危険な核兵器への懸念の表れだろう。
被爆直後の広島の小学校と米国の教会の実際の交流を基に自ら手がけた記録映画が再上映され、関心の広がりを感じたという。
「戦争の歴史が繰り返されている今だからこそ、子どもたちに平和の大切さを訴えることに意義がある」と重藤さんは話す。
「抑止神話」広がる疑念
核兵器禁止条約に加盟しないだけでなく、発信の機会になるオブザーバー参加にも背を向ける。米国の核戦力強化に肩入れしているのに等しい。
カズニック氏は、日本はかつて非核のシンボル的存在だったが、今は「米国の軍拡の応援団」であり、非核の「障害になっている」と指摘する。
日本政府は、平和立国として歩み出す原点となった79年前を振り返り、米国への核依存を強めるばかりの姿勢を見直す必要がある。
核の脅威を減らし、その廃絶に向けて総力を挙げることこそが、被爆国としての責務だ。
旧陸軍は軍服や軍靴を自前で…(2024年8月6日『毎日新聞』-「余録」)
旧陸軍は軍服や軍靴を自前で製造していた。毛織物の振興を目的とした官営千住製(せい)絨(じゅう)所が日清戦争前に陸軍に移管され、そこで作った布地で軍服を作る陸軍被服廠(しょう)が設置された
▲戦後、姿を消した「被服廠」の名は日本を襲った未曽有の惨禍とともに記憶される。関東大震災で最大の被害を出したのは東京・本所から赤羽に移転して間もない被服廠の跡地。約7ヘクタールの空き地に避難した数万の被災者が炎にのまれた
▲支廠は大阪と広島に置かれ、広島被服支廠は原爆投下後に救護所になった。築110年の倉庫は現存する鉄筋コンクリート造の最古期の建物。500メートルに及ぶ赤れんがの壁に権勢を誇った陸軍の一部だった時代が思い浮かぶ
▲約30年も活用されず解体論が浮上したこともあるが、重文指定で広島県が耐震補強など安全対策工事を実施する。今後、具体的な活用策が検討される予定だ
▲「私を含めた被爆者がいなくなった後に原爆の恐ろしさを次世代に伝えてくれるのは『物言わぬ被爆者』である被爆建物」。保存活動を続け、昨年8月に亡くなった中西巌さんが生前、小紙に語っている。学徒動員中に支廠で被爆し、厚いれんが壁に守られた中西さんは「平和と核兵器廃絶を世界に発信するヒロシマの新たな拠点に」と願っていた。
昨年もヘルメットにマスク姿の活動家らが早朝から集結した。平和記念式典に出席した岸田文雄首相に対し「広島から出ていけ」「沖縄を戦場にするな」などとシュプレヒコールをあげた。静かに悼むことからかけ離れた行動は非常識で許されない。公園でのデモ参加者によって広島市の職員が転倒させられるなどし、過激派の中核派活動家の男5人が暴力行為等処罰法違反容疑で検挙された。
市は今年、安全対策強化のため公園の入場規制を行い、拡声器やプラカードなどの持ち込みを禁止する。6日午前5時には公園利用者に対して公園外への移動を求め、6時半から手荷物検査を受けて園内に入ってもらうという。
市の対応は当然だ。式典は、厳粛かつ静謐(せいひつ)に行われるべきだからだ。
被爆者健康手帳を持つ被爆者は、3月末時点で10万6825人と手帳交付が始まった昭和32年度以降、最少を更新した。平均年齢は85・58歳と高齢化が進んでいる。手帳所持者のうち、広島や長崎で直接被爆した人は6万3337人になった。
日本は、唯一の戦争被爆国として核の惨禍を語り継いでいく必要がある。同時に、再び日本が核攻撃されないよう、核抑止の態勢を強化することも重要な課題である。
NHK朝ドラ「虎に翼」のヒロインのモデルは、日本で初めて女性の裁判所所長となった三淵嘉子である。現在の新潟編から舞台が東京に戻ると、「原爆」がテーマになりそうだ。
▼嘉子は史実では、原爆の違法性が争われた「原爆裁判」に裁判官の一人として関わっているからだ。昭和38年12月7日の小紙夕刊は、1面トップで「原爆投下に国際法違反の判決」と、東京地裁が世界で初めて下した判断を伝えている。原告の損害賠償請求権は退けたものの、被告となった国に十分な救済策を求めていた。
▼では投下した側はどうなのか。「米国の視点で書かれた原爆の作品を望みます」。こんな編集者の依頼に米国在住の作家、小手鞠るいさんが応え、平成30年に上梓(じょうし)した小説『ある晴れた夏の朝』は評判を呼んだ。
▼米国の高校生8人が原爆投下の肯定派と否定派の2組に分かれて討論会を開く。真珠湾攻撃、日中戦争、日系人部隊、ナチスによるユダヤ人弾圧、人種差別…議論は広がり、深まっていく。しかも過去の断罪にとどまらず、現在も各地で続く紛争にも話が及んだ。討論の行方に決定的な影響を与えたのは、パレスチナ自治区ガザで家族をイスラエル軍に殺されたパレスチナ人医師の手記である。
▼ただ現実は厳しい。ウクライナを侵略しているロシアは核を恫喝(どうかつ)の道具に使い、中国と北朝鮮は核軍拡に突き進んでいる。3度目の惨禍を招かないために何をなすべきか。核抑止を含めた、タブーのない議論を活発化させる日でもあるべきだ。
当時切明さんは、県立広島第二高等女学校(現・広島皆実高校)の4年生。その日、勤労動員先の軍用たばこ工場から休みをもらい、けがの治療のために医院へ行く途中、すさまじい閃光(せんこう)とともに地面にたたきつけられて、倒壊した家屋の下敷きになりました。
暗闇の中で意識を取り戻し、何とか自力で抜け出して、廃虚の中を無我夢中で母校へたどり着いたのですが、そこにもやはり地獄絵図。全身にやけどを負って変わり果てた姿の学友たちが、力尽き、次々と死んでいく。亡きがらは、校庭に穴を掘り、重油をかけて荼毘(だび)に付しました。
燃えながら泣きながら母校へたどりつき果てたる友よ八月六日
◆悲しみを短歌にぶつけ
広島市立大国際学部の2年生だった2021年の秋、証言会の開催を手伝いながら切明さんの語りに触れて、「もっと聞きたい。おうちへ行ってもいいですか」と頼み込み、翌週から卒業するまで、毎週のように通い詰めました。
「悲しい記憶は全部、短歌にぶつけてきたんだよ」
あるとき、切明さんがふと漏らしたひと言が、気になって仕方がありませんでした。ところがいくら「読ませてください」と頼んでも「恥ずかしくて見せられない」と、なかなか応じてくれません。あきらめず、3カ月間、しつこく迫ってようやく、書きためた原稿の束を預けてくれました。
かくれんぼかくれしままに消え失(う)せし友を探して今日まで生きぬ
特売の林檎(りんご)の包み持ち替へて核廃絶の署名をなせり
「限られた文字数の中に、切明さんの人生や思いの丈がぎゅっと凝縮されている。私たちが私たちの未来について考えるためのヒントがそこにある。この歌と言葉の中に詰まったものを絶対に消してはいけない。本にしよう」
◆バトンを渡したからね
巻末には、切明さんが子どもたちへの「証言」を締めくくる、いつもの言葉を添えています。
<『平和』はね、じっと待っていても、自分から来てくれるものではないからね。力を尽くして、引き寄せ、つかみ取り、離してはいけないもの。みんなで必死に守らないと、すぐに逃げてしまうのよ。私の大切な人たちのように、戦争、ましてや核兵器なんかで、死んではいけないからね。>
出来上がった歌集を手にして、佐藤さんは言いました。
「まかせたよ、バトンを渡したからねと、切明さんはおっしゃいますが、私は何を受け取ったんだろうって、ずっと考え続けているんです。ただ、たとえ切明さんがいなくなったとしても、これまで話してもらったことを忘れない人、語れる人の一人でい続けようと思っています」
私には想像できぬあの夏の日しかし必死に描きつづける
最近ひそかに短歌を作り始めたという、佐藤さんの作品です。
米心理学者のオルポートによると偏見は段階的に積み上がってい…(2024年8月6日『東京新聞』-「筆洗」)
米心理学者のオルポートによると偏見は段階的に積み上がっていくピラミッドのようなものらしい。最初は異なる集団に対する「誹謗(ひぼう)」から始まる
▼その上に重なるのが「回避」で相手を避けるようになる。そこから「差別」、暴力などの「身体的攻撃」へと発展していく。ピラミッドの頂点は「絶滅」。つまりはジェノサイドや集団殺害である
▼原爆の日にあのピラミッドの“今”を想像する。緊張する国際情勢の中、人類は世界中のいたるところで、あのピラミッドを静かに積み重ねてはいないか。臆病な身はそれを恐れる
▼ロシアがウクライナ侵攻に絡め、核使用に言及するのはもはや珍しくもない。イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区攻撃を支持する米国上院議員は広島と長崎への原爆投下を「戦争を終わらせる正しい判断だった」と言ってはばからない。過去の悲劇を忘れ、核の使用がかくも簡単に口にされる現在である
▼アリストテレスが怒りと憎悪の違いを説く。怒りは相手が苦しみを味わうことを望む。憎悪が望むのは「相手が全くいなくなること」。相互理解を拒む偏見と憎悪のピラミッドを根底から崩したい。相手を消し去りかねない核の使用を抑制できないほど高くなる前に。
広島は6日、長崎は9日に79年目の「原爆の日」を迎え、鎮魂の祈りに包まれる。
被爆者健康手帳を持つ人は今年3月末現在10万6825人で、過去最少を更新。平均年齢は85・58歳になった。被爆者の高齢化が進んでいる中、体験の継承と核廃絶運動の継続はますます重要になっている。そんな中、被爆者として認められず、今も認定を求め続ける人も少なくない。
広島の原爆投下後に降った「黒い雨」では2020年の広島地裁と21年の広島高裁が、国が指定した範囲外の人も被爆者と認め救済対象を広げた。これを受けて国が新基準をつくったものの、それでも認められなかった人たちが新たな裁判を起こしている。
被爆地への関心はここに来て高まっている。広島市の原爆資料館への23年度の入館者数は過去最多の約198万人に上った。特にインバウンド(訪日客)の急増と相まって外国人の増加が著しく、約67万人と3分の1を占めている。同年5月に開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)による関心の高まりもあろう。
同資料館は19年に展示内容を大きく変えている。破れた衣服や遺品などの実物や、遺影の展示を拡大させ被爆者がどんな人生をたどり、どのように亡くなったかなど「被爆の実相」を強く訴える内容になったほか、原爆投下に至る国際情勢の説明も詳細にわたっている。資料館の目の前には新たな施設もお目見えした。22年開館の「被爆遺構展示館」では被爆により消えた住居の跡を見ることもできる。
被爆者の訴えが結実したのが21年発効の核兵器禁止条約だが、日本政府はオブザーバーとしても加わっていない。被爆者の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に参加する36都道府県の団体に共同通信社が実施したアンケートで、約4割が会の存続に向けた課題として「会員の高齢化」を挙げている。約8割が「運営に被爆2世や被爆者以外が関わっている」と回答するように、運動の継承のためには次世代の力が不可欠だ。
広島、長崎両市が被爆者に代わり体験を伝える伝承者や証言者の育成に力点を置いているのもその表れだ。日本政府に核兵器禁止条約の批准を求めるために、4月に発足した「核兵器をなくす日本キャンペーン」は被爆者だけでなく、20代の大学生ら若者も加わっている。こうした動きを広げていく必要がある。
国際情勢は緊迫度が増し、核の脅威が高まっている。いま一度、核兵器がもたらした筆舌に尽くし難い惨状に思いを巡らせたい。
しかし世界を見渡せば、その後も核軍縮の機運は乏しい。
スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、世界の核弾頭総数(推計)は1月時点で、1万2121発だった。昨年からは微減したが、運用可能なものや実戦用に配備された核弾頭は増えている。
中国は「自衛のため」として昨年から90発増やし、500発となった。北朝鮮は20発増の約50発としている。ロシアの軍事協力で、今後も増加すると予想される。
昨年より8ポイント増え、国民が危機感を抱いていることが表れた。
日本は7月、米国が核を含む戦力で日本防衛に関与する「拡大抑止」の強化に合意した。米国の「核の傘」を軸にした抑止力強化をアピールする方針に転換したが、効果は見通せず、軍拡競争が進むリスクをはらむ。
国際社会の先頭に立ち核廃絶へ向けて取り組んでいくことを、誓う日としたい。
(2024年8月6日『新潟日報』-「日報抄」)
▼広島市の「市の花」としても知られる。原爆投下で75年間は草木も生えないといわれた焦土にいち早く花を咲かせ、市民に力を与えたそうだ。被爆からきょうで79年。この間ずっと、美しい花は市内を彩ってきたのだろう
▼〈戦争は夾竹桃が咲いてゐる〉鈴木章和。以前の本紙「季のうた」が紹介していた。以下のような解説が添えてあった。「戦争は」でいったん区切り、戦争とは何かと考えさせる。「夾竹桃が」以下は情景を提示する-。美しい花を前に戦争の不条理を思う
▼いま核兵器の廃絶は進むどころか、世界にはその使用をちらつかせる指導者すらいる。実戦配備を視野にミサイル開発に突き進む国もある。そうした状況を理由に挙げ、わが国もまた攻撃力を高めている。時計の針は逆方向に進むばかりだ
▼キョウチクトウは生命力が強く、乾燥や大気汚染にも耐えるので、道路脇の緑化にもよく用いられる。排ガスを浴び続けてもめげずに咲く姿に、逆境に耐える力をもらいたい
▼毒を持つ植物でもあるという。ひょっとして人間の出した毒を取り込み、世界を浄化しようとしているのか。あらぬ想像をしてみる。秋にかけて、息長く花を咲かせ続ける木だ。核兵器廃絶の展望はなかなか描けないけれど、歩みを止めてはならないと言っているのかもしれない。
広島選出の岸田文雄首相は「核兵器のない世界」を目指すと繰り返しながら、廃絶に向けた具体的な行動を取ろうとはしない。米国の「核の傘」による拡大抑止の強化を図る姿勢はむしろ、岸田政権の下でより鮮明になった。
その一つが、拡大抑止に関する双方の実務者の協議を閣僚級に格上げしたことだ。4月のバイデン米大統領との首脳会談で合意し、先月、初の会合を開いた。
条約の履行状況を協議する再検討会議は、2015年に続いて22年も最終文書を採択できずに決裂した。保有各国が核軍縮の義務を果たさないばかりか、ロシア、中国、米国が互いに核戦力の増強や近代化を図り、二国間の交渉すら成り立たない状況にある。
NPT体制が瓦解(がかい)の瀬戸際にあることを見据え、核廃絶に確かな道筋を付けるためにどうするか。核禁止条約は、NPTを否定するのではなく補完する条約である。保有国やその傘の下にある国が、NPTを弱体化させるとして背を向けることに道理はない。
被爆国としての責務に向き合うなら、日本が禁止条約に加わるのは当然だ。次回の締約国会議は来年3月にある。少なくともオブザーバーとして参加することをあらためて政府に求める。
神戸大大学院生の西岡孔貴(こうき)さん(26)は神戸で原爆の痕跡を追い、実相を突き詰めようとしている。
大学1年の時、広島平和記念資料館で模擬原爆「パンプキン」を知る。原爆投下を効果的に進めるため出身地の大阪など18都府県に49発が実験的に落とされ、1600人以上が死傷した。原爆は被爆地だけの問題ではないと感じ、各地で模擬原爆の調査を始めた。
■神戸から問う「神話」
神戸大大学院に進んだ後は、神戸に投下された4発について調べた。3発は着弾地が判明しているが、神戸製鋼所を目標にした1発は分かっていない。西岡さんは米軍の空撮写真を探し出し「これだ」と確信する。六甲山系の摩耶山中に大きくえぐれた跡があった。
昨年12月、他都市で調査する有志らとともに摩耶山に入り、8個の金属片を見つけた。現在、専門会社に依頼して鑑定を進めている。
身近な歴史を掘り下げる活動は、原爆を大きな文脈でとらえる研究につながっていく。米軍資料を読むうちに、模擬原爆は広島、長崎以降の投下訓練でもあったと気付く。近畿の都市が対象になってもおかしくない。広島に原爆を落とした「エノラ・ゲイ」は神戸での模擬原爆作戦にも参加していたことを知った。
米国でも日本でも、原爆が終戦をもたらしたとの認識は根強い。しかし、日米の資料や先行研究を調べるほど西岡さんは疑問を深める。
日本政府は終戦に際し国体(天皇制)の維持を最優先し、国民の被害を軽視した。原爆開発に巨額を投じた米政府は、批判をかわすため効果を強調する必要があった。両国の思惑が交差し、「終戦神話」が生み出されたのではないか。
神話は今も生きている。パレスチナ自治区ガザの戦闘が長びく中、米国では早期終結のため核兵器を使うべきだとの声が上がる。核廃絶を訴える立場の日本も米国の「核の傘」に依存し、強く抗議しない。今こそ人道に背く核の本質を問うべきだ。
「客観的に核兵器の限界を明らかにしたい。身近な戦争の爪痕を掘り起こすことがその原動力になる」と西岡さんは強調する。
■敵も味方も傷つける
生後8カ月の時、爆心地から1・1キロの地点で被爆したが、奇跡的に生き延びた。「町内でたった1人助かった赤ちゃん」と呼ばれた。
父は被爆者救済に奔走した牧師、故谷本清さん。教会に来る女性らは顔にひどい傷を負い、近藤さんは正視できなかった。「爆弾を落とした人を見つけ、敵を討つ」と誓った。
戦争は敵も味方も傷つける。憎むべきは戦争そのものだと感じた。
この夏、父ら6人の被爆者への取材を基に掲載されたルポ「ヒロシマ」を題材にした映画の製作が決まった。ルポの著者、故ジョン・ハーシーさんの孫キャノンさん(47)が企画し、近藤さんも協力する。79年の歳月を超え、谷本さんとジョンさんの絆を伝える。
「厳しい情報統制の中、原爆の実相を伝えようとした2人の思いを感じてほしい」と近藤さんは話す。
歴史的な証言と言えるだろう。米国の原爆開発の「マンハッタン計画」を率いて「原爆の父」と称された科学者・故ロバート・オッペンハイマー博士が米国で被爆者と面会した際、「涙を流して謝った」と立ち会った通訳が証言する映像が見つかったことが、6月に明らかになった。
広島市のNPO法人によると、映像は1964年、広島の被爆者らとオ氏が非公開で面会し、立ち会った通訳が2015年に証言した内容という。「涙ぼうだたる状態。『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と謝るばかり」などと語った。
原爆は、都市を無差別に破壊し、生き残った人々にも放射線による後遺症など塗炭の苦しみを与える非人道的な兵器だ。それを生み出した彼の葛藤を描いた映画「オッペンハイマー」が、今年のアカデミー賞を席巻したことでも注目が集まった。米国では「原爆投下によって戦争を早く終わらせることができた」と肯定する声が依然根強くある中で、被爆者に寄り添った原爆開発者の姿勢は救いになる面はあるのではないか。
破壊力の大きい「革命的兵器」の原爆の使用で、ソ連など他国との核兵器の開発合戦が起きて世界中に拡散していく―。オ氏ら科学者からはそんな懸念も出され、戦後、核を国際管理して軍事利用を制限する提案もされた。しかし、米ソ対立の中で実現せず、間もなくソ連が核実験を行い、懸念は現実化した。
広島に世界で初めて原爆が投下されてきょうで79年。改めて歴史を振り返った時、核兵器の国際管理が実現できていれば、と悔やまざるを得ない。そんな「人類の岐路」が、再び迫ってきている。
火薬、核兵器に次ぐ「第3の軍事革命」になると指摘されているのが、人工知能(AI)を使って人間の判断に基づかず敵を攻撃する自律型致死兵器システム(LAWS)だ。実用化されれば、武力行使の判断が瞬時に下り、一気に紛争化する恐れがある。
昨年末の国連総会で「対応が急務」と決議され、規制へ向けた会議が今春開かれるなど、ルールづくりが模索されている。来日したオ氏の孫は6月、核兵器の国際管理を呼びかけた祖父の声に「今こそ耳を傾けるべきだ」と記者会見で述べ、AIの軍事転用も危惧した。核軍縮の再構築とともに、AI兵器の国際管理が切に求められる。
▼主人公メイが印象的だった。日系人との理由で先輩に説得されて不本意ながら討論会に出たのに、計4回の討論を通じて原爆について深く学ぶ。〈あの閃光(せんこう)が忘れえようか〉。峠三吉の詩を朗読し会場の拍手を受ける場面もある
▼こうした実相を伝える声は多くの人に届けられてきた。だが、被爆者なき時代は間近と言わざるを得ない
▼日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に参加する岡山を含む36都道府県の団体に共同通信が行ったアンケート結果が先に本紙記事にあった。今後10年以上活動できるとしたのは6団体のみ。次世代は自ら学ぶことがより求められることになる
▼その責任を示すものだろう。冒頭の小説で討論会参加者の多くが共感する言葉がある。「過ちは繰返しませぬから」。広島の原爆慰霊碑の碑文だ。この決意を述べている主語をメイが読み解いていた。それは日本人、米国人であり、世界=人類でもある、と。
米国が広島に原爆を投下して、きょうで79年になる。同じ苦しみをほかの誰にも味わわせたくない―と被爆者は核兵器廃絶に向けた運動の先頭に立ってきた。ところが核を巡る緊張はいま、老いを深める被爆者の願いに反して、冷戦後で最も高まっている。
「広島と長崎の街が焼き尽くされてから80年近くがたった今もなお、核兵器は、世界の平和と安全に対する明白かつ現存する危険としてあり続けている」。国連のグテレス事務総長は3月の安全保障理事会でこう嘆いた。そして「終末時計は、誰にも聞こえるほど大きな音を立てて進んでいる」とも。
人類が自滅にどれほど近づいているかを象徴する終末時計は、米科学誌が毎年発表する。今年も昨年と同じく過去最短の「残り90秒」にセットされたが、事態はより悪化した。背景にはウクライナとパレスチナ自治区ガザで続く二つの戦禍がある。核保有国のロシアとイスラエルが核を持たぬ相手に対し、核の脅しを伴って攻撃する。その現実から目を背けてはならない。
◆核のボタンに手
衝撃のニュースを複数の米メディアが報じたのは、安保理の直前だった。ロシアがウクライナで核兵器を使用する可能性について、米中央情報局(CIA)が「50%以上」と分析し、バイデン大統領に報告していたという。ウクライナ侵攻1年目の2022年10月ごろのことである。
1980年代、米国と当時のソ連の首脳は「核戦争に勝者はなく、戦ってはならない」と宣言した。この原則の下に核抑止論を唱える国々にとって「使えない」はずの核のボタンに、プーチン氏が手をかけようとしていたとすれば、背筋が凍る。
◆軍縮から軍拡へ
イスラエルはガザへ苛烈な攻撃を続ける一方、核開発を進めるイランと報復合戦を繰り広げる。中国は核弾頭の増産を急ぐ。北朝鮮はロシアと関係を強化しミサイル開発に余念がない。核抑止論の破綻と相互不信が、核軍拡へ転じる要因となったのは明らかだ。
長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)の最新の推計によると、配備済みの核弾頭と、配備のために貯蔵されている核弾頭を合わせた「現役の核弾頭」は9583発。18年からの6年間で332発も増えた。核への信奉を打ち破らなければ、人類は自滅への道をたどるしかない。
日本は東アジアの緊張を受け、安全保障を米国の核戦力に頼る姿勢を一段と強める。日米両政府が合意した拡大抑止の連携強化がそうだ。「核兵器のない世界」を唱える戦争被爆国が、他国の核兵器に依存する矛盾が際立つ。
しかし、非人道兵器による脅し合いは国と国民を守る手段にはなり得ない。国際社会がそう決意した証しが核兵器禁止条約だ。日本が果たすべきは核抑止論を乗り越える行動である。先制不使用を含む核の役割低減の国際合意を積み上げる。その議論を主導することが、今こそ求められよう。日本が核の傘から出る近道ともなる。
今年の米アカデミー賞で米映画「オッペンハイマー」が作品賞、監督賞など7部門を受賞した。原爆開発者の葛藤を描いた同作を通じ、核問題への関心が高まったのは間違いない。一方で原爆被害は描かれず、きのこ雲の上からの視点であることは否めない。戦争を終結させ、今も自国を守っているという核の「神話」は米国のみならず、ロシアやイスラエルにもはびこる。
◆被爆者なき時代
だからこそ、被爆地はきのこ雲の下で何が起きたのかを伝え続けなければならない。同時に被爆者のいなくなる時代を見据えておきたい。被爆者健康手帳の所有者は初めて11万人を下回った。最多時から7割も減り、被爆80年の来年には10万人を割り込む可能性がある。平均年齢は85・58歳に達した。
今を生きる私たちは証言を直接聞ける最後の世代だ。原爆で人間はどうなったのか、固有の体験や思いを後世に伝えていく。市民一人一人が記憶の継承者なのだ。
その上で重要なのが記録である。国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」に「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」の国際登録を広島市と報道機関が目指している。写真と証言を重ねると、被爆の実態は立体的になって伝える力を増す。
核兵器が使われかねない焦燥感から、これまで口を閉ざしてきた被爆者が体験を語り始めた。一方で証言を続けてきた被爆者の高齢化は著しい。証言活動をサポートしたり、日本政府に核兵器禁止条約への参加を求める活動に加わったりする若者の姿が心強い。
記憶と記録のバトンをしっかりと引き継ぎ、核兵器廃絶を国際社会に絶え間なく働きかける。きょうを、その行動を改めて誓う一日にしたい。
原爆を詠む(2024年8月6日『中国新聞』-「天風録」)
あの朝はセミがうるさいほど鳴いていた。そう口にした被爆者は少なくない。心の痛みがよみがえる記憶だろう。この句も同じだったか。〈蝉(せみ)鳴くな正信ちゃんを思い出す〉。戦後10年に出た「句集広島」で特に目を引く
▲夫と4児を原爆で失い、古里熊本に帰った行徳すみ子さんが「長女功子遺作」として句集に寄せた。10歳だった娘は犠牲となった弟をしのぶ句を残し、すぐに亡くなったらしい。母自らも胸を打つ句を詠んだ。〈春泥に馳(は)せくる子あり亡き子かと〉
▲<この手にて亡骸(なきがら)荼毘(だび)に付せし日よキャンパスに戻り息絶えし友の〉。母校の女学校で命を落とした級友たちの光景だ。〈「かあちゃんを探して」と私のモンペの裾掴(つか)みたる子今も離さぬ〉。叔父の安否を求めた病院で会った少女はずっと頭の中に
▲証言活動で交流する大学院生の佐藤優さんが編者として歌集刊行を担った。そこに継承へのヒントがあろう。時代は変われど「句集広島」編者の言葉とも相通じる。あの日を永遠にとどめよう、と。
水面の明かり(2024年8月6日『山陰中央新報』-「明窓」)
次々に打ち上がる大輪の花火が、夕闇に包まれた宍道湖の上空を鮮やかに彩った。「水都・松江」の夏の風物詩、松江水郷祭花火大会が今年も開かれた。花火の総数は2日間で計2万1千発。圧巻のスケールだ
▼人混みが苦手で自宅マンションのベランダから眺めるのが恒例だったが、昨年初めて湖岸の有料席で観覧。花火の大きさと湖上に映る幻想的な美しさに魅了され、今年も足を運んだ
▼同じ夕闇の水面(みなも)に映える幻想的な明かりでも、こちらは哀愁が漂う。1945年に米軍の原子爆弾が投下された「原爆の日」に合わせ、広島で毎年8月6日の夕方に行われる灯籠流しだ。戦後間もなく、親族や知人を失った遺族や市民が追善供養のため手作り灯籠を川に流したのが始まり。コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催された昨年は、多くの市民が原爆ドーム横を流れる元安川に色とりどりの灯籠を流して犠牲者を悼んだ
▼広島で勤務した20年ほど前、8月6日の朝は平和記念式典を取材するのが恒例だった。だが、それで終わった気になり、市民の思いがこもった灯籠流しに一度も参加しなかった。今も後悔している
▼ただ平和へのメッセージをインターネットで投稿し、広島の施設などで投影する「オンラインとうろう流し」がコロナ禍を機に浸透してきた。これなら山陰からも気軽に参加できそうだ。水面の花火を楽しめるのも平和があってこそだから。(健)
79年前のきょう、広島に投下された原爆は一瞬にして多くの命を奪い、街を破壊した。
「再び被爆者をつくらない」
ところがその願いとは裏腹に、世界では核の脅威が高まっている。
中東では、事実上の核保有国であるイスラエルがパレスチナ自治区ガザで戦闘を続ける。先日起きたイスラム組織ハマスの最高指導者の殺害を受け、イスラエルとイランの緊張も急激に高まっている。イランも核開発を拡大している。
「核には核で対抗する」という核抑止論が世界中で力を持ち、核軍拡が加速している。
一方で、核軍縮の動きは進んでいない。
岸田政権は米国の「核の傘」を誇示し、周辺の核の脅威に対抗する姿勢が目立つ。日米両政府は7月、核を含む米国の戦力で日本への攻撃を思いとどまらせる「拡大抑止」を強化することで合意した。
核廃絶の機運をいま一度高めるとともに核保有国に対し、停滞している核軍縮の再開を強く促す。唯一の戦争被爆国として核保有国と非保有国の「橋渡し役」を自任する日本に求められるのは、こうした地道で具体的な取り組みではないか。
共同通信のアンケートでは、日本原水爆被害者団体協議会に参加する団体の8割が、運営に被爆2世など次世代が関わっていることが分かった。ただ、今後10年以上活動できるとしたのは2割弱で、活動を継続する難しさが明らかになった。
2世自身も高齢化が進む。差別を受けていた時代もあり、立場を明かしたくない事情もあるという。
当事者でなくても考えや思いを共有できるはずだ。長崎も9日に「原爆の日」を迎える。継承の裾野を広げ、社会全体で取り組みたい。
核戦争に勝者はいない(2024年8月6日『高知新聞』-「小社会」)
核戦争に勝者はいない―。こう訴え続けた元ソ連の最高指導者ゴルバチョフ氏が亡くなり間もなく2年になる。1980年代の米ソ核軍縮を実現し、冷戦終結に導いたリーダーは、その陰にあった難交渉の過程を晩年に述懐している。
ハイライトはやはりレーガン元米大統領との首脳会談になる。自伝「我(わ)が人生」によると、西側から「悪の帝国」と言われていた中、信頼関係づくりに腐心。核実験停止などソ連側が譲歩を重ね、中距離核戦力(INF)廃棄条約の調印に至った。
支えになったのは平和への執着と対話重視の思想だ。「難しくて複雑でも根本的な目標を見失わない」「相手を打ち負かすプロパガンダの勝利など考えなかった」
宣言が世界に響けと願うが現実は厳しい。五輪期間中も争いはやまず、ヒロシマの鎮魂の日でも中東では報復合戦で戦争が勃発寸前だ。国際情勢の緊張度は冷戦期以上かもしれない。
それでも何かに希望を見いださなければいけない。ゴルバチョフ氏は同著で読者に呼び掛ける。〈世界は破滅する運命にはなく、自分自身でよりよいものにできると信じている人々を見ると喜びや希望が湧いてくる。私はいつもそう信じてきた〉
世界のあちこちで紛争が絶えない。戦火は消えることがない。
■海外の市民に訴える
機構は広島市や広島大など4者が1月に設立し、平和に関する世界有数の研究、教育の拠点を目指す。「核兵器のない世界への思いを世界中の市民社会の世論に根付かせる」ため、海外の若手研究者も積極的に受け入れる。
シンポの会場は集まった人たちの切実な思いに満ちていた。
その後の世界で何が起きたか。
台湾との統一のためなら武力行使も辞さない姿勢をあらわにする中国の脅威も高まっている。
■強まる「核の傘」依存
ストックホルム国際平和研究所によると、1月時点の世界の核弾頭数は1万2121発を数える。
9割近くを占める米ロに続く中国が1年間で90発増え、推計500発になった。インドと北朝鮮も数を増やしている。
核兵器を使ってはならない。この人道的規範が軽んじられる状況を座視してはならない。
広島にG7首脳を招いた日本はこの1年、核兵器廃絶へどのような努力をしてきたのか。
首相は「核兵器廃絶はライフワーク」と言うばかりに見える。核禁条約への参加をはじめ、強い決意と具体的行動を示さなければ世界は決して動くまい。
核兵器は「絶対悪」であり、ひとたび使われれば長年にわたって多くの命を奪い続ける-。広島と長崎の被爆者は身をていして、原爆の悲惨さと非人道性を訴えてきた。その言葉を胸に刻み、核への恐怖で核を制するという「核抑止論」にあらがう力にしたい。
核大国ロシアはウクライナを照準に戦術核を配備し、使用をちらつかせている。核を保持するイスラエルはガザ侵攻を続け、戦火の拡大も懸念される。中国は核軍備を増強し、北朝鮮はロシアの協力で核・ミサイル開発を急ぐ。こうした動きに対抗しようと、国際社会は以前にも増して「核抑止力」への依存を深めている。
それは日本も同様だ。政府は先月、米国が核を含む戦力で日本を防衛する「拡大抑止」の強化で合意した。中国や北朝鮮、ロシアを念頭に、日本が米国の「核の傘」で守られていると誇示することで、抑止につなげるという。
昨年の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)では声明で「核兵器は、それが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たす」と核抑止力を正当化した。国民の間にも、現実と理想の乖離[かいり]を「仕方ない」とする空気が広がっている気がしてならない。
「国家間の疑心暗鬼が深まり、世論においても武力に頼らざるを得ないという考えが強まっていないか」。広島市の松井一実市長は平和宣言でそう問いかけ、為政者に核抑止力からの転換を促す。国際社会の分断は深刻化し、核拡散防止条約(NPT)も機能不全に陥っている。核兵器は「防衛のため」という約束も、いつ破られるかも分からない。被爆地の提言を全ての国が真摯[しんし]に受け止めるべきだ。
今立ち返るべきは、79年前の惨禍を知る被爆者の言葉だ。「二度と自分たちと同じ苦しみを繰り返させてはならない」と世界に向けて凄惨[せいさん]な体験を語り継いできた。これまで核兵器が使用されなかったのは、被爆者の声が抑止力となってきたからではないか。
ガザ情勢を巡っては、民間人の虐殺に反対する市民の声が国際世論を動かし、停戦を求める大きなうねりとなった。国と国とではなく、人類の問題として核廃絶を訴えてきた被爆者と支援者への連帯は、市民レベルで広がっている。そのつながりを「核なき世界」の実現に向けた礎にしたい。
修学旅行生の前で被爆体験を語り始めたころ、記憶がよみがえって泣いてばかりいた。子どもたちから送られてきた感想文には、こう書かれていた。〈広島はかなしいところ〉…。80年代から語り部の活動を続けた沼田鈴子さんの思い出である
◆22歳のとき職場で被爆、建物の下敷きになり左足を失った。絶望に沈んだ彼女を励ましたのは一本の木だった。勤務先の中庭に植えられていたアオギリ。熱線と爆風を浴びて傷ついた枝は、それでも新たな緑を芽吹かせていた
◆「これではいけない」。感想文を読んだ沼田さんは思ったという。ヒロシマを悲劇にのみ塗り込めてはならない。体験をしっかりと語り、伝えていかなければ、と。世界で起きている戦争や核兵器の現状、先の大戦での日本の加害などを学んでいった
◆戦時下の記憶の継承は、体験者の語りだけで成り立つわけではない。沼田さんのように、聞き手の素朴な問いや反応が、体験者の視野を広げ、記憶の意味を深めることもある。「あの日」から79年が過ぎ、記憶は薄れゆく。聞き手は過去に向かってどんな問いかけができるだろう
何を語る(2024年8月6日『長崎新聞』-「水や空」)
何かのタイミングで〈被爆地出身の看板が泣く〉と書いたことは鮮明に覚えている。逆に“さすがは広島の政治家”と書いたことは残念ながら一度もない
▲〈首相は何を語るだろう〉-まるでナントカの一つ覚えだ。先々代の首相の頃から毎年のようにこう書いては、迫力も踏み込みも足りない型通りのスピーチに落胆させられてきた。それでも書かないわけにはいかない。首相は何を語るか
▲核兵器禁止条約の発効から3年半が過ぎた。黙殺を続ける政府の姿勢は1ミリも変わらない。周りが前に進んでいるのに同じ場所で立ち止まっているのは後退と同じことだ。長崎では被爆体験者との面会が予定されている。ゼロ回答はいらない
▲数日前、広島の地元紙にインタビューが載った。“最後かもしれない”という自覚はうっすらお持ちのようだ。覚悟のひと言を待っている。広島も長崎も。(智)
広島原爆投下79年 核抑止論も「絶対悪」だ(2024年8月6日『琉球新報』-「社説」)
広島原爆投下79年 核抑止論も「絶対悪」だ(2024年8月6日『琉球新報』-「社説」)
広島に原爆が投下され、史上初めて核兵器による無差別殺りくがなされて79年となる日を迎えた。日本政府は核抑止論にさらにのめり込み、核廃絶から遠のくばかりだ。「絶対悪」の核兵器で威嚇する「核の傘」もまた「悪」である。被爆国である日本は、核の傘に頼るのではなく、核廃絶をただちに実践しなければならないのである。
世論にも懸念を抱かざるを得ない。日本世論調査会が3日までにまとめた全国郵送世論調査で、政府が基本姿勢とする非核三原則(核兵器を「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」)について「堅持するべきだ」が75%と、昨年より5ポイント低下した。逆に「堅持する必要はない」が5ポイント増の24%になった。核兵器の開発、保有への抵抗感も弱まっているのだろうか。
ウクライナ侵攻を続けるロシアがNATOに対して核の威嚇を行い、核保有国とされるイスラエルが中東全域に戦火を拡大しかねない情勢にある。東アジアの緊張もあり、国民世論が揺さぶられているようだ。しかし、核兵器の開発も保有も、抑止力に頼ることも、使用の正当化につながる。「絶対悪」という意味を考えるべきである。
米国の歴史家、アルペロビッツ氏らは1960年代に、当時のトルーマン大統領が、原爆を使わなくても日本が近く降伏すると認識していたことを証明した。アルペロビッツ氏は2022年に共同通信の取材を受け「政府も軍も情報機関も、第2次大戦の早期終結に原爆は不要だと分かっていた」「米国は必要ないのに多数の日本の市民を殺害した。戦争犯罪だ」と述べた。
昨年5月の広島でのG7サミットでの核軍縮文書「広島ビジョン」は、「核兵器のない世界」を「究極の目標」とした上で「防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、戦争や威圧を防止すべきとの理解に基づいている」として核抑止論を肯定した。
日本は、被爆者の声に耳を傾け、原爆投下を戦争犯罪とし、米政府に謝罪を求めるべきである。そして破綻の危険をはらむ核抑止論を捨てて、核兵器禁止条約に参加し、外交による平和を目指して核廃絶をリードすべきである。
広島はきょう、米軍の原爆投下から79年の「原爆の日」を迎えた。
1945年8月6日、広島上空で原子爆弾がさく裂。3日後の9日には長崎上空にきのこ雲が上がった。
二つの都市は、無差別大量死をもたらす新型兵器により、瞬時にして壊滅した。生き残った人々も後遺症や健康被害に苦しめられた。
だが核を巡る状況は悪化する一方だ。
事態が深刻なのは「核を持っている国に対抗するには核しかない」という考えが広がっていることだ。
バイデン米政権は2022年に公表した「核体制の見直し(NPR)」で、核の先制不使用を打ち出さなかった。
核兵器の使用目的を核攻撃に対する抑止・報復に限るとする「唯一の目的」宣言も盛り込まなかった。
逆に日米両政府は、核戦力などによって日本への攻撃を思いとどまらせる「拡大抑止」を強化する方向に舵(かじ)を切った。
「核のない世界」の実現を主張しながら、岸田政権は米国の核戦力への依存を深めているのである。
■ ■
式典に招待するのは、国連に加盟しているか、日本政府が国家承認していることを基準にしているという。
パレスチナを国家として承認している国は増え続け、国連加盟193カ国中140カ国を超える。
公平性を求める国際社会の声にも耳を傾けたい。
■ ■
日米が核を含む「拡大抑止」を強化すれば、北朝鮮や中国は自らの核戦力を強化して対抗するだろう。
この連鎖を断ち、対話を通じて対立の構図を解消していくことが各国共通の利益になるのは明らかだ。
被爆国の平和への構想力が問われる局面だ。