自民党総裁選に菅義偉が立候補した理由、安倍総理の辞任で広がった「官房長官の出馬待望論」(2024年8月23日『ダイヤモンド・オンライン』)

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記者会見で総裁選への立候補を正式表明する筆者(撮影日:2020年9月2日) Photo:JIJI
 2020年夏、長年続いた安倍政権の幕が閉じた。当時、私は自民党総裁選挙への出馬を全く考えていなかったが、事態が一変したこともあり、熟慮の末、立候補を決断した。今回は、20年に私が総裁選出馬に至った経緯を振り返ってみたい。(第99代内閣総理大臣/衆議院議員 菅 義偉) *菅義偉前首相が過去の決断の裏側を明かす連載『菅義偉「官邸の決断」』の本稿を、特別に期間限定で無料公開いたします。
● 安倍総理の辞任で 事態が急変
 それは突然の辞任発表だった。2020年8月28日、7年8カ月続いた安倍政権は、安倍晋三総理ご自身の辞任会見によって幕を閉じることとなった。新型コロナウイルスの感染拡大で厳しい判断を迫られる日々が続く中、持病だった潰瘍性大腸炎が再び悪化したが故の決断であった。
 〈病気と治療を抱え、体力が万全でないという苦痛の中、大切な政治判断を誤ること、結果を出せないことがあってはなりません。国民の皆さまの負託に自信を持って応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではないと判断いたしました〉
 絞り出すように述べた安倍総理の無念はいかばかりであったか。総理として決断を下し、仕事を全うしなければという重圧も、今の私には当時以上によく理解できる。
 そもそも、この突然の辞任がなくとも、翌21年9月には自民党総裁選挙が控えていたため、かねて「ポスト安倍」が取り沙汰されていた。
 私の名前がその一人として挙がることもあったが、そのたびに「総裁選への出馬は全く考えていない」と答えてきた。これは偽らざる本心であった。官房長官として安倍総理を支えることが自らの仕事であり、使命だと考えていたからである。ましてやコロナ禍の真っただ中の時期だ。「その先」のことなど、全く考える余裕もなかった。
 しかし、安倍総理の辞任発表で事態は一変した。国民は政策の継続性、とりわけコロナ対応を引き続き最重要課題に据えて取り組む政府を求めている。「現下の課題への対応継続のためにも、菅官房長官が総裁選に立つべきではないか」――党内だけでなく、国民からもそうした声が聞こえてくるようになったのである。
 それでも、9月2日に総裁選への立候補を正式に表明するまでにはかなりの熟慮を重ねた。結局、出馬を決意したのは、「コロナ禍を乗り切らねばならないこの重要な時期に、『政治の空白』をつくってはならない」という一心からであった。
 「持てる力の全てを尽くし、安倍総理が全身全霊を傾けてきた取り組みを、さらに前に進めたい」
 出馬を表明すると、あらゆる方面から応援と支持の声が届いた。特に故郷・秋田からの声援は熱烈なものだった。故郷は私の政治の原点である。総務大臣官房長官として取り組んできた「活力ある地方創り」にも、さらに熱意を持って取り組む覚悟だったため、こうした地方からの声は大いに励みになった。
 総裁選に向けて公表した政策の柱は、(1)国難の新型コロナ危機を克服、(2)縦割り打破なくして日本再生なし、(3)雇用を確保、暮らしを守る、(4)活力ある地方を創る、(5)少子化に対処し安心の社会保障を、そして、(6)国益を守る外交・危機管理――の6項目。いずれも安倍政権においても重要な政策の柱であり、私自身が官房長官として鋭意取り組んできたものでもあった。
● 「外交の経験不足」の声にも 首脳外交に同席してきた自負
 
 外交に関しては、私の「経験不足」を懸念する声もあった。確かに外務大臣防衛大臣も未経験であり、官房長官として直接、外交案件に関わる機会も限られていた。
 しかし実際には、官房長官の立場から安倍総理の首脳外交の現場には数多く立ち会ってきていた。
 例えば日米の首脳電話会談にはほとんど全ての機会に同席した。また、兼務していた沖縄基地負担軽減担当大臣として、米国との折衝も自ら行ってきた。そうした蓄積は、総理という立場でも生かされるだろうと考えた。
 7年8カ月、官房長官としてさまざまな政策を手掛けてきたが、総理として着手したい政策メニューはいくらでもあった。
 その一つがデジタル化の推進と、その司令塔としてのデジタル庁の創設であった。
 コロナ禍のあらゆる場面で露呈した日本の「DX(デジタルトランスフォーメーション)の立ち遅れ」は、かねて私が問題視してきた省庁の縦割りとも深く関連していたのである。
 私は多くの重要施策が進展しない背景には、行政の縦割り、あしき前例主義、既得権益の温存、これらの要因のどれか一つないし複数が関係していると考えてきた。デジタル化の遅れはその最たる象徴だったため、デジタル庁創設を看板政策の一つに掲げたのである。
 「リーダーたるもの、問題を解決しなければならない。問題を解決しない人は、リーダーではない」
 これはコリン・パウエル氏(米国統合参謀本部議長国務長官を歴任)の言葉だが、まさに私の信条ともなっていたのだ。
 総裁選に入ると、政局報道は「派閥の動き」ばかりを追うことになった。私は派閥に入っていない若い議員たちが人事などで不利を被ることがないよう、小規模の「勉強会」は随時開いてきたが、10年以上無派閥を貫いてきた。総裁選においても、どの派閥にも支援を求めず、無派閥の立場で出馬した。
 派閥システムにも功罪はあるが、少なくとも総裁選では、自民党議員として自分が総裁に選びたい人物に自由に投票できるようにすべきである。派閥が各メンバーに対して意に反する候補者への投票を強いることは、本来あってはならない。その考えは今も全く変わっていない。
 余談になるが、かねて安倍総理が「菅さんが総理になっても“菅官房長官”がいないのが問題だ」とおっしゃっていたのを思い出す。これを「女房役がいない菅政権の弱点を指摘するものだ」と言う人もいたが、むしろ私自身は官房長官として役割を果たせたことへの安倍総理からの最大級のねぎらいであると受け止めていた。
 そして9月14日、自民党総裁に選出され、続いて16日には臨時国会での首相指名選挙を経て、第99代内閣総理大臣に就任した。このときの感慨は忘れ難い。
 14日の両院議員総会で私は「雪深い秋田の農家の長男に生まれ地縁も血縁もなく政治の世界に飛び込んだ、全くゼロからのスタートだった私が、この歴史と伝統ある自民党の総裁に当選できた。これこそ民主主義ではないか」と述べたが、これは虚飾のない本音であった。
 だが、そんな感慨に浸っている猶予はなかった。新型コロナ対策はもちろんのこと、20年4~6月期にGDP国内総生産)の年率換算でマイナス27.8%と、過去最大の下落幅を記録した経済活動の回復――。すぐに取り掛かるべき仕事が、目の前に山積みになっていたのである。
 (構成/梶原麻衣子)