家族と隔てられ「絶望の淵」 ハンセン病患者たちが残した絵画の数々、命の痕跡を刻んだ芸術の行方(2024年7月31日『withnews』)

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長島愛生園で「長島のゴッホ」と画才をたたえられた入所者・山村昇さんの絵。10枚ほど描いたもののうち、唯一手元に残った作品だといいます=2023年6月、山本悠理撮影
ふるさとへの思い、自分と家族を隔てるもの、帰れない悲しさ――。生まれ育った大阪からハンセン病療養所に入所した少年が、絶望の淵で描いた「絵」があります。「長島のゴッホ」と呼ばれたこの男性は今年、85歳で亡くなりましたが、生前描いた作品のほとんどは、どこかに散逸してしまったといいます。「こんなすごいもの、捨てられたら困る」。そうした思いで、患者・回復者たちの作品を後世に引き継ごうと奔走する動きもあります。(朝日新聞デジタル企画報道部・山本悠理)
絶望の淵で描いた「瞳」 いまはどこに…
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2024年2月、85歳で亡くなった山村昇さん=2023年6月、長島愛生園(岡山県瀬戸内市)、山本悠理撮影
「瞳に映るのはふるさとの光景。周りの黒いのは、自分と家族を隔てている鎖。帰れない悲しさや先行きへの不安を、そこに込めたのです」
今年2月に亡くなった山村昇さんは、生前、記者にそう語っていました。
ハンセン病と診断され、11歳のときに生まれ育った大阪を離れて、ひとり長島愛生園(岡山県)に入所しました。
ずっとここから出られないのか。家族とはもう会えないのか……。絶望の淵で少年が描いたのが、1枚の瞳の絵でした。
見開いたまなこを影が縁取り、眼球の中には家々や電信柱が映る、不思議な構図。のちに、ハンセン病患者・回復者たちの詩編を集めた「いのちの芽」というアンソロジー詩集の挿絵にも使われました。
その後も10枚ほど絵を描いた山村さんを、園内で親交があった詩人は「長島のゴッホ」と呼び、才能をたたえていました。
しかし、現在、「長島のゴッホ」の筆致をじかに伝えるものは、半世紀前に園内の施設を描いたという1枚だけです。瞳の絵を含め、作品のほとんどは、どこかへと散逸してしまいました。
ハンセン病当事者の痛苦「一撃」で伝える絵画の力
故郷の富士山の青々とした雄姿を描いた水彩画。愛らしい地蔵とともに日々の思いを記した絵巻物。何かを訴えかけるかのように、こちらを見つめる自画像――。
国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)では9月1日まで、企画展「絵ごころでつながる-多磨全生園絵画の100年」が開催されています。ハンセン病と診断されて多磨全生園に入所した人々の描いた、絵画作品116点などを通史的に紹介する、初めての試みです。
「絵を描くことがぼくらのすべてだ」
入り口には、ある入所者の詩からとった、そんな言葉が掲げられています。
企画展を担当した同館の吉國元学芸員は「当事者たちが抱いてきた言葉にできない経験や痛苦。そうしたものを、絵画は一撃で人に伝える力があるように感じます」と語ります。
一方、今回展示された作品の多くは本画のためのデッサンや、資料からの複製でした。実物の大半は保存されずに失われてしまったことに気づかされます。背景には、入所者の作品を残すことの意義に対する理解の乏しさなどがありました。
「絵画活動への理解が深くなかったのでは」
「多磨全生園絵画の100年」の展示会場。100点を超える入所者たちの絵画作品などが並んでいます=2024年3月、東京都
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東村山市の国立ハンセン病資料館、山本悠理撮影
北條民雄の小説「いのちの初夜」や明石海人の歌集「白描」、谺雄二の詩集「ライは長い旅だから」など、ハンセン病患者・回復者たちが世に送り出した作品は、日本の文学史において一つの位置を占めています。
しかし絵画では、文学作品のように保存・継承が進んできたとは言いがたい現状があります。
吉國さんは、隣接する多磨全生園の状況について「1970年代以降の絵画は寄贈などを通じてある程度保存されてきたものの、現在まで残ったものはごく一部に限られてしまう」と語ります。
「療養所はあくまで医療施設なので、職員や入所者の間で絵画活動への理解が深くなかったのではないでしょうか。そのため、故人の絵画を残そうとする動機付けにも乏しかったと考えられます」
さらに、▽園内の限られたスペースで絵画を残すことが困難▽文芸は園内誌に掲載されて広く共有されたが、絵は個人の所有物にとどまった▽それゆえ、本人が亡くなるなどした際に処分されやすかった▽遺品として残っても、制作年や署名といった情報が記されないことが多く、史料として位置づけるのが難しい、といった点も影響していると指摘します。
吉國さんは「本人が現実に絵筆を取り、この作品に向かっていた。絵にはそうした身体の息づかいを感じるようなリアリティーがあります。ハンセン病患者・回復者の方々の生きた証しを示す上で、絵画作品を後世に引き継ぐことは、残された重要な課題です」と訴えます。
入所者たちから感じた「無念さ」
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膨大な数の金陽会の作品を、保存に向けて一点ずつ調査したといいます=藏座江美さん提供
「持ち主が亡くなれば、絵はどうなるんだろう? こんなすごい作品、捨てられたら困る。その一心でした」
ハンセン病元患者たちの作品を残そうと活動するキュレーターの藏座江美さんは、そう語ります。
熊本市現代美術館で学芸員をしていた2002年、菊池恵楓園(熊本県合志市)の入所者たちの絵画クラブ「金陽会」の作品に初めてふれた藏座さん。大事に育てた花を描くもの、誰もが想像もしないような色で山を塗るもの……。一つ一つが、絵を描くことそのものへの歓喜や祈りをたたえ、生命の光を放っている。その力に圧倒されました。
2007年には任された企画展の実施に向け、全国13カ所の国立療養所と韓国、台湾の療養所で残された絵画などを訪ね歩いたといいます。
そのなかで多くの入所者たちが、誰かが自分たちの作品を芸術として求めていることに驚き、「こんな時代が来るとは」と語っていたと、藏座さんは振り返ります。
「その言葉には、『作品がもっと残っていれば』という無念さがにじんでいるように思えてなりませんでした」
2015年に美術館を退職して以降は、金陽会の作品の保存活動に注力。ボランティアの手も借りながら、900点余りある作品群の画像を撮り、デジタルアーカイブ化しました。2022年には恵楓園内の資料館が新装され、いま、絵画たちはそこに保管されています。
以前に展覧会を見た中学生から、「後輩たちにも金陽会の絵を見てほしい。また学校で絵を展示してください」とのメールを受けとったという藏座さん。
「ほんの少しでも、絵を見た人々の中に何かが残り、その絵のこと、その絵を描いた人たちのことを思い出してくれればうれしいです」
【取材後記】残された絵画を前に、何を「思ひ浮べる」か
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9月29日まで青森県立美術館で開催中の「鴻池朋子展 メディシン・インフラ」のサテライト会場として、国立療養所松丘保養園(青森市)の社会交流会館に、金陽会メンバーの作品などが展示されています=藏座江美さん提供
「刻みつけてさへおけば何時かはふつとそのよき人達を思ひ浮べることが出来る」
国立ハンセン病資料館で渡された企画展の図録を開くと、多磨全生園の入所者だった山岡響さんの、そんな言葉が飛び込んできました。
誤った認識のもと、長きにわたって社会から隔離され、差別の対象とされてきたハンセン病患者・回復者の人々。
苦難の中にいた彼・彼女たちにとって、芸術活動は、去っていく仲間たちの記憶を、自分自身の命の痕跡を“刻みつけ”る、大切なよりどころだったのではないでしょうか。
長島愛生園で70年余りを過ごした「長島のゴッホ」山村昇さんは、30代で右目、70代で左目の視力を失い、絵筆はとうに握らなくなっていました。それでも、昨年6月にお会いした際、少年時代に描いた瞳の絵のことを詳細に語ってくれました。
わずかに残された絵画たちを前に、私たちは何を“思ひ浮べる”のか。山村さんのまなざしが、今もじっとこちらを見つめているように感じてなりません。
※この記事はwithnewsとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。

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鴻池朋子展 メディシン・インフラ
鴻池朋子の身体は東日本大震災以降、地球の振動を新たな画材と感じ、旅をしては野外の技法を習得し、時に土木工事や縫いものをメディアに「絵」を描いてきました。
昨年より東北でスタートした《メディシン・インフラ (薬の道) 》は、鴻池が各地を巡り、縁のあった場所に自作を展示保管してもらう長期的なプロジェクトで、その活動は福島、岩手、北海道へと少しずつ広がってきています。現在も能登半島地震の被災地の仮設住宅に設置されるカーテン作品を制作中ですが、その住宅も大切な場の一つとなることでしょう。
今回、移動する動物のごとき鴻池から「地図帳やランドマーク」の役目を託された青森県立美術館。そこには新作や現地レポートを通じて、観客に鴻池の軌跡をリレーする充実した中継ぎ役が求められているようです。
「作家やアーティストのようにメッセージや問いを投げかけるのではなく、後はもう自分の体しかない、というギリギリのところまで連れだしたい」と語る鴻池。観客の体がその場に晒された時、アートが人間の本能的なものに向けて、豊かに染み渡るメディシン (薬草) のように機能していくのではないでしょうか。