「明日は北海道へ里がえり 誰も待っている人いないの」
「里帰り身内に逢えず 何処(どこ)かさみしくて 泣き出しそう」
優しくほほえむ地蔵の絵に、その言葉は語りかけるように添えられていました。
描いたのは2020年に84歳で亡くなった十勝管内出身の鈴村洋子さん。幼少期にハンセン病を発病、18歳のときから道外の国立ハンセン病療養所で暮らしました。国の強制隔離政策は1996年に終了。2002年から道の里帰り事業に計7回参加しましたが、毎回、身内に会えたわけではありません。
障子紙に描かれたほほえむ地蔵と「明日は北海道へ里帰り 誰も待っている人いないの」とつづられた絵巻作品=3月、国立ハンセン病資料館の企画展
鈴村さんは、2010年に療養所の多磨全生園(東村山市)の機関誌に掲載された手記「凍裂の叫び」に半生を記している。
手記によると、小学1年生の時、遠足で足が重く周囲についていけなかった。夜、眠れないくらい腕から指が痛むようになり、神経の感覚を調べる検査でハンセン病と分かった。
当時、ハンセン病患者や家族は激しい差別を受けた。鈴村さんは学校で仲間はずれにされ、「汚い」などと言われた。いじめられると、数少ない友人の朝鮮人の子がチョゴリ(民族服)の中に隠してくれた。担任教諭から「出て行け」と冷たい言葉を浴びせられ、5年生から学校に行けなくなった。
弟や妹もいじめられた。18歳だった1954年秋、同居している家族に気づかれないよう夜中に家を出て、青森の療養所に向かった。それから半世紀ほど、療養所内の仕事で得た給与の大半をきょうだいに送ったが、直接会うことはかなわなかった。妹は、結婚した夫の親族に姉の存在を明かせなかったという。
ようやく妹との再会を果たせたのは、里帰り事業で道内を訪れたときだった。会えなかったときは絵巻に「泣き出しそう」と記したが、一方でこんな思いもつづった。
「生きるってやっぱりうれしい 父ちやん母ちや ありがとう」
「泣き出しそう」と記した後、「生きるってやっぱりうれしい」との言葉がつづられている絵巻作品
■ほほえむ地蔵
鈴村さんは、ほほえむ地蔵の絵を多く描いた。国立ハンセン病資料館の聞き取りによると、鈴村さんが療養所で地蔵を描き始めたのは97年。入所者に頼まれ、墨汁で描いたのがきっかけだった。障子用の巻き紙のほか、カレンダーの裏や菓子箱の仕切り、シャツなど身の回りにあるものに描いた。
布のTシャツにサインペンなどで仏教の経典の言葉やお遍路などが描かれた作品
色とりどりの地蔵に「姿形が変わっても全て愛です」との文言を添えた作品も。鈴村さんと交流のあった関係者によると、落ち込んでいるときやふさぎ込んでいるときに描くことが多かったという。
紙にサインペンで色とりどりのほほえむ地蔵が描かれ、右の縁に「姿形が変わっても全て愛です」との言葉が添えられている作品
国立ハンセン病資料館の吉国元学芸員(38)は地蔵の絵について「(療養所などで)亡くなった人たちの鎮魂のため」と推察する。「鈴村さんの思想が地蔵の絵にこめられている。手記には『私も全ての人の霊魂と、病む人々の安らぎのために祈っております』とあり、この祈りの姿勢は地蔵の絵に通じているのではないか」と話す。
国立ハンセン病資料館の企画展「絵ごころでつながる 多磨全生園絵画の100年」は、鈴村さんの長さ約18メートルの巻物をはじめ、過去100年に入所者が描いた作品を展示している。9月1日まで。午前9時半~午後4時半(月曜と祝日の翌日は休館)。入場無料。問い合わせは同資料館、電話042・396・2909へ。