戦争で兄姉を失った91歳弟が願う「対等な弔い」 軍人の兄と空襲犠牲者の姉、国は「異なる扱い」を放置(2024年7月8日『東京新聞』)
太平洋戦争末期、市街地の6割を焼き尽くした岡山空襲。姉を失い、大やけどを負った辻野喬雄(たかお)さん(91)=岡山市=は長年、犠牲者の数や行政の対応を調査してきた。戦死した兄などの軍人と異なる扱いに胸を痛め、「追悼の気持ちに差はありません」と話す。(橋本誠)
◆12歳の時の岡山空襲、姉と高台に避難
昭子さんと写った写真などを見る辻野喬雄さん。「姉の死を話すのはつらい。年に1回が精いっぱい」という=6月29日、岡山市で
「上空でドンと音がし、赤黒い花火が開いた。訓練の通り両手で目、耳、鼻をふさいで伏せると、ドッカーンと爆発した」
1945年6月29日の岡山空襲から79年の日、街が戦場になった夜を辻野さんが振り返った。
当時12歳。岡山市内の自宅から、16歳の姉、昭子さんと高台に逃げ、爆撃を受けた。近くの池に飛び込んだが、右手の甲と右ほほに大やけど。親指の皮がたれ下がっていた。バラバラバラ、パンパンパンと焼夷(しょうい)弾が降る中を走った。
◆足を負傷した姉は破傷風に
自宅は全焼。姉は足の傷で歩けず、山間部へ移された。辻野さんは「傷口にウジがわき、血を吸われて痛い。手が充血して耐えられないので、心臓の高さでつっていた」という。
7月10日、姉から手紙が届いた。「喬ちゃん、傷はいかがですか(略)どんなことがあっても生きて居て下さい。姉ちゃんも足がよくなったら又一緒に敢闘しましょうね」。安心した直後、「顎が動かない」と電報が来た。2日後、破傷風で亡くなった。琴が得意で、優しかった姉の死に、泣きじゃくった。
◆終戦の翌々年に兄の訃報
終戦の翌々年、15歳上の兄、正秋さんの戦友が訪ねてきた。「マニラが陥落して斬り込み隊に行き、迫撃砲の破片が太ももに入って死んだ」と家族に話した。大学を繰り上げ卒業となり、戦地に行った兄。「かわいそうやった。よう遊んでくれたから、つらかった」
辻野さんは京大工学部卒業後、化学メーカーで勤務。岡山市議も務め、1999年ごろから空襲の調査を始めた。岡山空襲の死者数とされてきた「1737人」は各警察署の集計の合算だが、姉が亡くなった日は空白だった。他に資料があるはずだが、確認されていない。
軍人との差を意識したのは、2001年の「空襲・戦災を記録する会」の集会。「『戦災殃死者(おうししゃ)だから年金はない』と厚生省に言われた」という東京空襲体験者の言葉で、岡山市戦没者追悼式の標柱の文字「岡山市戦没者之霊」の意味を考えた。
◆「お金より国の態度の問題」
国や市に聞くと、「戦没者」は8月15日の全国戦没者追悼式に準じた表記だった。軍人の戦死者だけでなく、空襲などの戦災死者も含むとされている。だが補償について定める援護法の「戦没者」には入っておらず、遺族年金などはない。
法的な違いは歴然としているのに、付属物のように「含む」でいいのか。「招待された人も違和感を持つ。せめて追悼の場では対等な弔いを」と考え、「記録する会」の冊子に投稿。空襲犠牲者の遺族団体も同意見で、市は2002年の式典から戦災死者と戦死者を標柱に併記した。
数年前、兄の特別弔慰金の通知が届き、他界した親族にずっと支給されていたことを知った。民間人の姉の死や自分のやけどにはない補償だった。高齢となった今、全国空襲被害者連絡協議会が求める救済法の成立を待ち望む。
「苦労してきた戦災者を何人も知っている。お金より国の態度の問題です」
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