<本を読もう、街に出よう>(6)永井荷風 実業家の息子、落語家断念、2億円を持ち歩き…その風変わりな人生とは(2024年6月27日『東京新聞』)

 
 太平洋戦争時、六本木の自宅を東京大空襲で焼かれた作家、永井荷風が戦後に落ち着いたのは千葉県市川市だった。残っていた江戸情緒を気に入り、京成八幡駅の近くについのすみかを構えた。気ままな1人暮らし。お昼は近所の「大黒家」(現在は閉店)でいつもカツ丼。散歩好きで夏には白幡天神社の木陰で涼んでいた。葛飾八幡宮もよく訪れたという。
市役所内に移設された永井荷風の書斎で思い出を語る孫の永井壮一郎さん=千葉県市川市で

市役所内に移設された永井荷風の書斎で思い出を語る孫の永井壮一郎さん=千葉県市川市

ドナルド・キーンが聞きほれた「よどみのない清流のような日本語」

書斎の横に展示されている等身大の永井荷風像=千葉県市川市役所で

書斎の横に展示されている等身大の永井荷風像=千葉県市川市役所で

 荷風の晩年、日本文学研究者のドナルド・キーンが自宅を訪ねたことがある。その経緯は「ドナルド・キーンの東京下町日記」(東京新聞出版)に記されている。「すみだ川」を英訳して荷風を世界に紹介したキーンは5年前に亡くなったが、生前、「日本人は『きたないところですが』と謙遜するが、本当にきたなかったのは荷風宅が初めてだった。書斎で座るとほこりが舞った」と話していた。荷風は前歯が欠け、ズボンの前は全開で風采の上がらない老人だったという。
 ところが「話し出すと、よどみのない清流のような日本語。初めて聞きほれた話し言葉だった」。そんな文学史に残る対面があった書斎は市川市役所第1庁舎に移設、展示されている。子どもがいなかった荷風はいとこの次男を養子に迎え、その息子の壮一郎さん(68)が、老朽化した家の改築時に同市に寄付した。

◆「身内にとって迷惑な人」?エピソードに事欠かず

閉店したものの看板などが残る大黒家=千葉県市川市で

閉店したものの看板などが残る大黒家=千葉県市川市

 荷風が79歳で逝去した時、壮一郎さんは3歳。記憶は薄いが、父親からの話で「荷風は身内にとって迷惑な人だったようだ」と苦笑いする。確かに一風変わっていた。父親は大実業家。荷風は期待されて育ったが敷かれた路線を外れ、落語家に弟子入り。家族の反対でその道を断念し、実業家になるべく米仏に計5年近く遊学した。ところが、米国が舞台の短編集「あめりか物語」が大人気となり、29歳で流行作家になった。
 2度の結婚はいずれも1年足らずで破綻。代表作「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」の舞台となった向島の色街「玉の井」に通い、72歳で文化勲章を受章後も浅草の踊り子と酒を楽しんだ。原稿料に加え、相続遺産もあって裕福。通帳と現金など今の金額で2億円近い全財産をかばんに入れて、死ぬまで肌身離さずに持ち歩いていたという。

◆「荷風の孫」という肩書きは…

白幡天神社にある永井荷風の文学碑=千葉県市川市で

白幡天神社にある永井荷風の文学碑=千葉県市川市

 壮一郎さんは少年時代に荷風の孫と知られて、いじめに遭ったりもした。ところが不思議な縁もあるもので、就職した輸入車販売会社の社長が荷風の大ファン。社長に「荷風の孫だ」と連れ回され、一時は毎晩、銀座で「クラブ活動」に励んだという。最近は昔の友人に頼まれて荷風なじみの場所を案内することが増えているそうだ。細身で背が高く、どことなく荷風を感じさせる壮一郎さん。「『荷風の孫』という肩書は良くも悪くもあったが、孫ならではの体験もできた。年を重ねるごとに祖父の偉大さを感じる」と目を細めた。
永井荷風が散歩で訪れていた葛飾八幡宮=千葉県市川市で

永井荷風が散歩で訪れていた葛飾八幡宮=千葉県市川市

<ながい・かふう> 1879年、東京生まれ。本名は永井壮吉。「深川の唄」など話題作を次々と発表して才能が認められ、森鷗外らの推薦で1910年、慶応大教授に。16年、同大を辞職。下町の歓楽街や花街に通い、それを題材に多くの作品を執筆。17年9月から亡くなる直前まで書き続けた日記「断腸亭日乗」では軍部批判を繰り返した。
 
 文・鈴木伸幸/写真・田中健

<TOKYO発×木曜文学> 第4木曜は首都圏の文学館を訪ね、作家や作品にゆかりのある場所を巡ります

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