今も世界レベルでいえば、権力者が反対勢力の人物を捕らえ、見せしめのために残酷な刑罰を科すことが珍しくない。それは豊臣秀吉も同じことで、見せしめのために残酷で無慈悲な刑罰を科した。このうち、特に残酷な刑罰の例を3つ挙げておこう。
◎門番にえげつない刑罰を科す
天正17年(1589)2月、秀吉が住む京都の聚楽第の南の鉄(くろがね)門に、秀吉を揶揄する「落書(らくしょ)」が貼り付けられていた。「落書」とは、人々の目に触れる場に匿名で、政治風刺や批判、揶揄した文書を掲示することである。これを知った秀吉は、当然ながら激怒した。
犯人がわからないこともあり、秀吉は門番衆7人の責任を問うこととし、死罪という厳罰を科した。その方法は極めて残酷なもので、初日は門番の鼻を削ぎ、翌日は耳を削ぎ、3日目には逆さ磔にした。別に、門番衆が悪いわけではないのだが、あまりに酷い常軌を逸脱した刑罰である。
◎宣教師、信徒らへの残酷な刑罰
天正15年(1587)、秀吉はバテレン追放令を発して、宣教師によるキリスト教の布教を禁止した。これによりキリスト教は弾圧されたが、慶長元年(1596)12月には、「二十六人聖人殉教事件」によって、26人の宣教師や信徒が処刑された。
秀吉は京都で宣教師らを捕らえると、鼻や左右の耳を削いだといわれている。その後、宣教師らは罪人と同じく京都市中を引き回され、それから大坂、堺に送られ、最終的に長崎で処刑された。秀吉がキリスト教の布教を許さないという、強い姿勢を示したものであろう。
◎山上宗二の悲惨な最期
茶人の山上宗二は、小田原北条氏のもとで茶の指南を行っていたが、天正18年(1590)に秀吉が小田原征伐を開始した。当初、宗二は小田原城に籠城していたが、皆川広照が秀吉に投降した際に従った。こうして宗二は千利休の仲介もあって、秀吉と面会することになった。
しかし、秀吉に面会した宗二は、秀吉の気に障ることを言った。その言葉に激怒した秀吉は、宗二の耳を削ぐように命じたのである。そのうえ、宗二は首を刎ねられ、悲惨な最期を遂げたのである。