豊臣秀吉が見せしめのために行った、残酷で無慈悲な刑罰3選(2024年4月8日『Yahooニュース』)

豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 今も世界レベルでいえば、権力者が反対勢力の人物を捕らえ、見せしめのために残酷な刑罰を科すことが珍しくない。それは豊臣秀吉も同じことで、見せしめのために残酷で無慈悲な刑罰を科した。このうち、特に残酷な刑罰の例を3つ挙げておこう。

◎門番にえげつない刑罰を科す

 天正17年(1589)2月、秀吉が住む京都の聚楽第の南の鉄(くろがね)門に、秀吉を揶揄する「落書(らくしょ)」が貼り付けられていた。「落書」とは、人々の目に触れる場に匿名で、政治風刺や批判、揶揄した文書を掲示することである。これを知った秀吉は、当然ながら激怒した。

 犯人がわからないこともあり、秀吉は門番衆7人の責任を問うこととし、死罪という厳罰を科した。その方法は極めて残酷なもので、初日は門番の鼻を削ぎ、翌日は耳を削ぎ、3日目には逆さ磔にした。別に、門番衆が悪いわけではないのだが、あまりに酷い常軌を逸脱した刑罰である。

◎宣教師、信徒らへの残酷な刑罰

 天正15年(1587)、秀吉はバテレン追放令を発して、宣教師によるキリスト教の布教を禁止した。これによりキリスト教は弾圧されたが、慶長元年(1596)12月には、「二十六人聖人殉教事件」によって、26人の宣教師や信徒が処刑された。

 秀吉は京都で宣教師らを捕らえると、鼻や左右の耳を削いだといわれている。その後、宣教師らは罪人と同じく京都市中を引き回され、それから大坂、堺に送られ、最終的に長崎で処刑された。秀吉がキリスト教の布教を許さないという、強い姿勢を示したものであろう。

山上宗二の悲惨な最期

 茶人の山上宗二は、小田原北条氏のもとで茶の指南を行っていたが、天正18年(1590)に秀吉が小田原征伐を開始した。当初、宗二は小田原城に籠城していたが、皆川広照が秀吉に投降した際に従った。こうして宗二は千利休の仲介もあって、秀吉と面会することになった。

 しかし、秀吉に面会した宗二は、秀吉の気に障ることを言った。その言葉に激怒した秀吉は、宗二の耳を削ぐように命じたのである。そのうえ、宗二は首を刎ねられ、悲惨な最期を遂げたのである。

 

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事