118年ぶりUターン、山車がたどった数奇な運命 かつては荒川区の神社に、なぜか下仁田へ渡って…(2024年5月27日『東京新聞』)

 東京都荒川区の石浜神社の氏子町会がかつて所有し、明治後期に都市化のあおりで群馬県下仁田町に渡った山車が、神社の鎮座1300年を記念して118年ぶりに里帰りした。下仁田の人々の力で色鮮やかによみがえった山車は26日、荒川、台東両区にまたがる神社の氏子区域を巡行した。(鈴木里奈、小形佳奈)
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群馬県下仁田町から118年ぶりに里帰りした山車を引く、「石浜神社里帰りプロジェクト実行委員会」の関係者ら
◆「里帰りできてよかった」
 「せーの!」。掛け声を合図に動き出した山車は、ゆっくりと住宅や町工場の並ぶ道を進んだ。下仁田町の「石浜神社里帰りプロジェクト」のメンバーら約70人が交代で綱を引いた。
 沿道の人々は山車にカメラを向けたり、玄関前に出て手を振ったり。プロジェクトの荻野匡司(ただし)委員長(60)は「みんなが喜んでくれて、里帰りできてよかった」と顔をほころばせた。
 山車は江戸末期~明治初期に造られ、現在の台東区橋場1丁目あたりにあった町会が神社の例大祭で使っていた。橋場一丁目町会の及川喜一郎会長(74)は「町の人も楽しみにしていた。貫禄があるね」と、わが町を行く山車を見上げた。
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修復中の山車(写真左)と明治39年仲町町会が譲り受けた山車人形(写真右、いずれも石浜神社里帰りプロジェクト実行委員会提供)
◆近代化で電柱や電線が整備されると…
 山車は幅2メートル、高さは楠木正成の山車人形を載せると5.5メートルになる。近代化で電柱や電線が整備されると、運行が難しくなり、1906(明治39)年、人形と一緒に下仁田町仲町地区に渡った。なぜ下仁田町だったのかは、今では分からない。
 地元の諏訪神社例大祭で約50年間使われた後、山車だけが別の町会に移管された。ところが、担い手不足で十数年前から倉庫に眠っていた。ただ、山車が下仁田に渡った後、仲町以外の諏訪神社の氏子町会でも山車が造られ、下仁田周辺の祭り文化発展のきっかけになったという。
 2012年、荒川区の区制80周年企画展で、下仁田から運ばれた正成の人形が区内で展示され、石浜神社の関係者と下仁田側との交流が始まった。今回、石浜神社の小西啓文(ひろふみ)宮司(62)の依頼がきっかけとなり、山車の里帰りが決まった。
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山車を修復するプロジェクトのメンバー(石浜神社里帰りプロジェクト実行委員会提供)
◆当時の絵図を参考にしながら修繕
 仲町地区の有志でつくるプロジェクトでは昨年6月から約1年かけ、山車を修繕。下仁田に渡った当時の絵図を参考にしながら、オリジナルに近い色に塗り替え、電線の下を通れるよう、人形を上下できる昇降機を取り付けた。
 江戸~明治時代、石浜神社の周辺の隅田川沿いは屋敷街で、風光明媚(めいび)な名所として浮世絵にも描かれてきた。小西宮司は「地域の歴史を再認識してもらえたのでは」と喜ぶ。
 祭りが終わり、山車は再び下仁田に戻る。今秋の諏訪神社例大祭では、石浜神社の関係者が山車の巡行に参加を予定している。
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