隅田川から観音像が引き上げられたとされる地に立つ駒形堂(左)。右は駒形橋
駒形堂は約1400年前に漁師の兄弟が網で引き上げた観音像を最初に安置した場所とされる。つまり浅草寺発祥の地だ。短気な土地っ子は「コマンドウ」と呼んで親しんできた。ここから雷門へと続く参道には、とろろ飯やそばなど、参拝客の腹を満たした老舗が並ぶ。
多くの参拝客が訪れる浅草神社
雷門を抜け、仲見世を出て、まっすぐに歩けば浅草寺だが、今回は少し右手にある浅草神社に向かった。三社祭の起源や今について知りたかったからだ。迎えてくれたのは土師幸士(はじこうじ)宮司(50)。浅草寺起源に登場する土師真中知(はじのまなかち)の63代目の子孫にあたる。
土師真中知に、観音像を川から上げた漁師の兄弟、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、武成(たけなり)を合わせた3者を祭神とするのが浅草神社。「三社」の名の起こりでもある。三つの家系は今も健在で、「三譜代」と呼ばれて代々、浅草寺、浅草神社の職を務めてきた。そして、三社祭は鎌倉時代の1312年、神輿(みこし)を船に載せて隅田川を渡御した船祭が起源とされる。
長い歴史を一身に背負う土師宮司は意外や気さくな人だった。前職は電子工学の研究者で「答えが一つしかない世界でしたが、宗教はグレーなので戸惑いました」と実感を明かす。
普段は保管庫にある3基の宮神輿を見せ、ご自身で解説をしてくれた。田中優子さんが矢継ぎ早に質問を浴びせる。歴史談議はすぐに深まっていった。
<三社祭> 5月に3日間にわたって行われる浅草神社の例大祭。中日に氏子44町の町内神輿約100基が繰り出す「連合渡御(とぎょ)」や、最終日に3基の宮神輿を担ぎ出す「宮出し」は勇壮そのもの。江戸時代は3月に開催されたが、明治時代に入って5月に変わり、東京に夏を呼ぶ祭りとなった。初日に奉納される都無形文化財指定の田楽「びんざさら舞」はチベット由来という説もある。
◆土師氏と浅草 田中優子
そもそも江戸時代末まで、どこでも寺と神社は一体で、三社も浅草寺の中にあったという。明治政府が天皇制確立のために神仏分離令を出し、伝統的な祈りの場であった各地の寺や神社が破壊され、国家神道に統合された。この時、浅草寺で観音菩薩(ぼさつ)を鎮守していた三社は寺と分離されて、浅草神社となったのである。
現在の浅草神社の宮司・土師幸士さんはトヨタの研究所に勤めておられた。後継として招かれ、大学に入り直して神職の資格をとられたのだという。私は前回、待乳山(まつちやま)は「この真中知にちなんだ山だ」と書いたが、早速訂正を迫られた。真中知を「まつち」ではなく「まなかち」と読んでいる。「真」は「直」であったという説もある。土師氏は浅草寺成立当時から、浅草寺で観音を守る、重要な存在だったのだ。
3人の由来について出雲族という説が見られるが、土師氏は上方にもいた。いずれにしても6世紀に複数回にわたって百済から仏像や仏典、医学、暦学を担う人々、瓦師や画工などが次々と日本に渡来した。彼らが東国に来たこともわかっている。そして、浅草寺は7世紀に建立された。国際的な、仏教の拠点創りの一環だったのであろう。 (江戸学者・法政大前総長)
浅草神社の境内は、まさに江戸文化のるつぼ。民衆の中から生まれた英傑の痕跡がいくつも並んでいる。
新吉原の遊女蕋雲(ずいうん)の歌碑には驚く。のびのびした筆致で万葉の名歌を書き記した碑だ。筆達者で、錦絵にも描かれたと伝えられる。
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