良い子になります」佳子さまの学生生活を振り返る、入学式に述べていた誓いの“言葉”(2024年3月31日)

長女・眞子さんと登校していた佳子さま

佳子さまたちの教育方針

 さらに、佳子さまたちの教育方針について聞かれた秋篠宮さまが、「これは以前にもお話ししたかと思いますが、教育方針、そう毎年、ころころ変わるものではありませんので」と答え始めると記者たちから思わず笑いが起きた。

 秋篠宮さまは続けて、「私としては今までどおりそれぞれが持っている個性、それぞれがやりたいこと、やってみたいことなどをできるだけ伸ばしていってあげることができればと思っております。ただ、もちろんその中で、やはり、社会生活をする中で守らないといけないことというのがありますので、そのあたりはきっちりと教えることができればと思っております」と、これまでの会見とほぼ同じ内容を繰り返した。

 遡って1991年10月23日に眞子さんが生まれ、翌'92年秋には、《自然体で伸び伸びとした子になってほしいと思います》と秋篠宮さまは綴っている。

 '93年11月の誕生日会見で記者から眞子さんの教育方針を尋ねられた際には「まあ、私としては伸び伸びと元気に育ってくれればいいと、そういうふうに感じております」と語り、紀子さまは「宮さまが先ほどおっしゃったことの他に、そうでございますね(略)、生活する上での基本的な習慣や、また、大事な事柄を発達の段階に応じて学んでいってほしいと思っております」と、母親としての視点から付け加えた。

 さらに佳子さまが生まれた翌'95年11月の記者会見では「私はおのおのの持っている個性をできるだけ自由に伸ばせるような環境であればいいというふうに思っています」(秋篠宮さま)、「教育方針ということを日常生活の中で娘たちに接するときに気をつけていることとしてとらえるならば、2人それぞれの年齢に応じた基本的な生活習慣、大事な事柄、そして感性を大切にしていけるよう努めております」(紀子さま)と話している。

 佳子さまの祖父、上皇さまは幼いころから両親や姉、弟、妹たちと離れた場所で暮らし、多くの側近たちに囲まれた生活を送った。肉親たちと共に暮らす、温もりのある家庭がどれほど恋しかったのかを、上皇さまは会見などでしばしば、口にしている。1983年12月20日、50歳を前にした記者会見で「この25年間(筆者注・結婚後の期間)を振り返ると、やはり絶対にそれまで味わえなかった心の安らぎを得られたと思います。子どもたちの成長は、自分自身を顧みる機会をつくってくれていると感じています」「それまで、1人でしたから、心の安らぎというか安定はありませんでした」(『新天皇家の自画像』文春文庫)と述べている。

 上皇さまが綴った文書

 また1999年12月、誕生日に際しての宮内記者会への文書回答の中で上皇さま(当時は天皇陛下)は、次のように綴った。

《私にとって家庭は心の平安を覚える場であり、務めを果たすための新たな力を与えてくれる場でありました。また、実際に家族と生活を共にすることによって、いくらかでも人々やその家族に対する理解を深めることができたと思います》

 秋篠宮さまの両親である上皇ご夫妻はそれまでの皇室の慣習を改め、天皇陛下秋篠宮さま、それに妹の黒田清子さんの、3人の子どもたちとひとつ屋根の下で暮らし、大切に育て上げた。このことが昭和天皇香淳皇后の時代の育児とは大きく異なる。子どもたちと同居し、親の手元で育てるという上皇ご夫妻の方針を、秋篠宮ご夫妻はしっかり受け継いでいる。その上で、子どもたちが「おのおのの持っている個性をできるだけ自由に伸ば(そうと)」している。

「家族という身近なものの気持ちを十分に理解することによって、初めて(略)国民の気持ちを実感して理解できるのではないかと思っています。子どもたちに対しても家庭を大切にするように教えてきたつもりです」(『新天皇家の自画像』文春文庫)。これは、1984年4月の会見で上皇さまが語った言葉である。どんなときも国民と苦楽を共にするという皇室の理想的なあり方、それを実現するためにも、まずは、家族を愛する

──身近にいる家族を思う気持ちが、ひいては、国民を理解する心に通じるのだという教えは説得力を持つ。

 自由に個性を伸ばし佳(よ)い子に育った佳子さまは、国民と苦楽を共にするという理想に向けて一歩ずつ歩みを進めていく。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に『秋篠宮』(小学館)、『美智子さまの気品』(主婦と生活社)など

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