「フェミニスト経済学」って何だ? 教科書の執筆者に聞いた 女性の「無償労働」無視する主流派を問い直す(2024年3月28日『東京新聞』)

 
 男女の賃金格差が解消しない中、家事や育児などの「ケア労働」を視野の外にしてきた主流派の経済学を問い直し、誰もが生きやすくなる経済の理論を生み出そうとする動きがある。「フェミニスト経済学」と呼ばれ、昨秋、国内で初となる教科書が出版された。執筆者の一人、金井郁埼玉大教授(労働経済論)に聞いた。(柏崎智子)

 フェミニスト経済学 フェミニズムの視点で経済学をとらえ直す学問。「ケア」を経済社会の基盤に据え、ジェンダーによる差別・抑圧でもたらされる不平等から女性のみならず万人を解放し、暮らしぶりの向上を目指す。1960年代以降の第2波フェミニズムの思想や理論の影響を受けて成立し、90年代初頭に欧米を中心に国際学会が設立された。国内では2008年に学会ができ、昨年10月、学者9人の執筆で初の教科書「フェミニスト経済学」が出版された。

◆家事、育児、介護…「ケア」は分析対象外

 ―なぜ経済学の問い直しが必要なのか。
 主流派経済学は主に市場経済を分析対象とし、女性が多く無償で担ってきた家事や育児、介護などケア労働は対象外としてきた。ケアは人間が生きるために絶対に必要だが、それに費やす時間や労力を織り込んだ経済社会になっていないため、企業などで女性は労働力として2軍扱いされる状況が続いている。主流派経済学の中のジェンダーバイアス(性別による偏見)を分析する必要がある。
 
 ―主流派経済学のどこに課題があるのか
 
フェミニスト経済学の考え方を説明する金井郁埼玉大教授=さいたま市で

フェミニスト経済学の考え方を説明する金井郁埼玉大教授=さいたま市

 人間のとらえ方だ。「合理的経済人」というモデルを使うが、その人間像は、他者から完全に独立した大人で誰の世話もせず、世話にもならない人。しがらみなく自分の利害や好みで物事を選択するとしている。
 しかし、実際の人間は、誰かにケアされないと死んでしまう赤ちゃんで生まれ、子ども期もある。大人になっても病気の時にはケアを受け、老いると介護が必要となる場合もある。主流派経済学は誰かがケアしていることを、あたかも空気のように自然に湧き出てくるものとしてきた。背景には「女性がやるものだ」というジェンダーバイアスが横たわっている。

◆コロナ禍の一斉休校で明らかになったこと

 ―ケアが考慮されず、女性にどんな不利があったか。
 
 日本の企業で働く場合、正社員には長時間労働や転勤に応じることが期待され、子育て中などの女性はパート労働など非正規の働き方を選びやすくなる。一見合理的な選択のようだが、ケアのために低賃金の働き方を選択せざるをえない側面がある。
 ケアを考慮しない政策も女性の負担を高める。顕著だったのは2020年、新型コロナの感染防止として突然行われた学校の一斉臨時休校。日中も家にいる子どもを見るため仕事をあきらめ、その後も長く戻れなくなった女性がたくさんいたことが統計で明らかになった。
 海外でも、ケアを軽視し女性に負担をかけた政策が繰り返された。2008年のリーマン・ショックで欧州は緊縮財政政策で福祉予算を削った。公的なケアサービスがなくなった分、家族を世話する女性たちの無償労働時間が増えた。下がった賃金を仕事の掛け持ちでカバーし、有償の労働時間も長くなるなど女性への影響が大きかったといわれている。
 
 
 ―フェミニスト経済学が求める社会は。
 
 誰もがケアをしたり、されたりすることを中心に据えた経済社会の構築だ。企業は、長時間労働や転勤など拘束性の高さで賃金や昇進を決めず、同一価値労働同一賃金の原則を徹底させ、男性も含め全ての従業員にケアの時間を保障する。国や行政は、質の高いケアサービスを利用しやすい値段で提供する。各政策が与える男女別の影響を調べ、偏りがあれば是正していくことも大切だ。家庭内では、無償労働ジェンダー平等に割り振っていく。
 少子化が止まらないのも、子どもを産めば経済的な不利を一身に背負わされる状況が続いているからでは。経済学の中のジェンダーを問い直すことは、社会の持続可能性につながる。
  ◇ 
 「フェミニスト経済学―経済社会をジェンダーでとらえる」(編・長田華子、金井郁、古沢希代子)は有斐閣から出版。4070円
 

フェミニズムの視点から,すべての人のウェルビーイングの実現をめざす。日本ではじめてのフェミニスト経済学のテキスト!
<まえがき>
◆なぜ,いま,フェミニスト経済学か
 本書は,フェミニズムの視点から経済学をとらえたフェミニスト経済学の教科書である。フェミニズムの視点とは,経済社会におけるジェンダーの作用を追究することによって,女性に限らず,男性,子ども,高齢者などの万人を,差別や抑圧から解放し,1人ひとりの権利を保障することで,万人のウェルビーイング(well-being)の向上をめざすものである。これは,本書の副題「経済社会をジェンダーでとらえる」が意味するところである。ウェルビーイングとは,日本語で「福祉」や「幸福」とも訳されるが,本書では「暮らしぶりの良さ」と定義する。
 2020年,私たちは新型コロナウイルス感染症パンデミックに遭遇した。その影響は,すでにあったジェンダー,階層,人種,グローバルノースとサウスによる不平等・格差を深め,人をケアするための政治も経済も脆弱であることを浮き彫りにした。さらに,22年に勃発したウクライナ戦争は大規模な人命と環境の破壊を引き起こし,国際市場における食糧・エネルギー価格の高騰と,アフリカや中東をはじめとする途上国での食糧不足を招いた。また,すでに気候変動にともなう自然災害の影響は甚大なものとなっており,世界中で,多くの命が犠牲になっている。このような世界が抱える問題をどのようにフェミニズムの視点から経済学の事象として分析できるだろうか。
フェミニスト経済学は,人間のニーズ充足のための生産・提供・調達・準備・保管といった「プロヴィジョニング」のありようを分析する学問である。人間のニーズを満たすためのプロヴィジョニングを考察しようとすれば,主流派経済学がおもな分析対象としてきた市場経済の分析だけでは十分ではない。人間のニーズの充足は,世帯の中でも行われるし,国家による福祉サービスの提供も人間のニーズを満たすプロヴィジョニングである。地域コミュニティにおけるコモンズ(共有資源)の保全と利用や自家消費用の食料生産もプロヴィジョニングである。フェミニスト経済学は,世帯,国家,地域コミュニティ,市場において,どのように人間のニーズが満たされるのか,受け手と与え手のジェンダーの偏り,その提供に必要とされる労働は有償なのか無償なのかなどに着目して分析する。その際,人間は他者からケアを与えられなければ生命を保持することができない,他者に「依存した」状態で生まれることに目を向ける。私たちが生きる社会は他者からのケアを絶対的に必要としていることを前提に経済社会のありようを考えることが,フェミニスト経済学の特徴といえる。
 また,フェミニスト経済学は,セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖にかかわる健康と権利)も経済のテーマととらえる。それは,人間のウェルビーイングと再生産にとって重要な要素だからである。性をめぐる関係性や人間と環境との相互作用のなかで,人間がどのように生まれ,そしてその健康がどのように維持されるかを研究することも経済学の対象となる。つまりフェミニスト経済学は,人間の脆弱性を前提に,人間のニーズを満たす財やサービスのプロヴィジョニングを分析することで,ケアを中心にすえた経済学を構想しようとしているのである。

◆IAFFEとJAFFEにおけるフェミニスト経済学の展開
 本書は,1990年代からフェミニスト経済学の発展に大きく貢献してきた国際フェミニスト経済学会(International Association for Feminist Economics:IAFFE)および日本フェミニスト経済学会(Japan Association for Feminist Economics:JAFFE)の研究蓄積に大きな刺激を受けて執筆されている。IAFFE は92年に設立され,現在64カ国に会員を擁している。会員は,グローバルノースとサウスの研究者,実務家,アクティビストなど,多様なバックグラウンドをもつ者から構成される。IAFFEは95年に,学術雑誌Feminist Economicsの発行を開始し,97年には,国連経済社会理事会との協議資格を獲得し,以降,学術研究のみならず積極的に政策提言も行っている。92年以降,IAFFEは,北米,ヨーロッパ,それ以外(アフリカ,南米,アジア等)と持ち回りで年次大会を開催しており,こうしたことも世界中でフェミニスト経済学が広まっているがゆえの試みである。
 JAFFEは,IAFFEの活動に触発された日本の研究者たちによって2004年に「フェミニスト経済学日本フォーラム」として設立され,2008年には研究活動の促進,国内外の交流の強化をめざして「日本フェミニスト経済学会」に改組された。2016年より学術雑誌『経済社会とジェンダー』を発行し,近年の研究大会では,家事労働,公的ケアとしての相談支援業務,東南アジアの経済成長の再検討,コロナ災害と女性,フェミニスト経済学からみた政治・権力など日本の課題に直結するテーマに取り組んでいる。

◆本書の構成と特徴
 第Ⅰ部の「理論と方法」では,フェミニスト経済学の分析視角として,合理的経済人仮説,アンペイドワーク,世帯内の意思決定と資源配分を検討し,分析ツールとして,生活時間とジェンダー統計を提示する。第II部の「領域と可能性」では,労働市場,マクロ経済,ジェンダー予算,福祉国家,金融,資本・労働力移動,貿易自由化,開発,環境・災害という各分野におけるフェミニスト経済学の問題意識と分析視点を提示する。
 各章の構成も可能なかぎり統一した。第1章をのぞくすべての章を3節構成とし,第1節では,各分野においてジェンダーによって発生している状況や問題がいかに異なるのかについて述べ,第2節で既存の経済学がどのようにその領域や問題を扱ってきたかを簡潔に押さえ,第3節でフェミニスト経済学による分析方法や政策提案を紹介した。各章にColumnをおき,本文の理解を助ける具体的な事例を盛り込んだ。また,巻末には,読書案内を掲載した。読書案内には執筆者全員で,読者が入手可能な日本語で読める良書や小説,エッセイ,映画,ドキュメンタリーを選んだ。こうした書籍などを通じて広くて深いフェ
ミニズムと経済学の世界への関心を広げてほしい。
 本書は,いまの経済社会とジェンダー秩序に居心地の悪さや疑問を感じている人や,経済学の発展に関心のあるすべての人に向けて書かれている。また,大学の授業やゼミで使用することを想定し章を構成したが,経済学を学んだことのない読者でもポイントをつかんでもらえるように心がけて執筆した。
 もはや人間のウェルビーイングも地球環境も危機に瀕している。フェミニスト経済学は,人間と地球環境の両方にとって持続可能な社会を構築するための分析枠組みを提示するだけでなく,行動のための学問でもある。さあ,フェミニスト経済学の扉を開いてみよう。

                                              編  者 

<主な目次>
第Ⅰ部 理論と方法
第1章 フェミニスト経済学への招待
 1 フェミニスト経済学とは何か
 2 フェミニスト経済学の分析視点
 3 学際性と多様性3.1 フェミニスト経済学の学際性
 4 フェミニスト経済学の研究課題──本書の構成
Column① 家政学フェミニスト経済学
第2章 アンペイドワーク──人間のニーズとケア
 1 フェミニスト経済学の核心
 2 アンペイドワークの3つのR
──Recognize/Reduce/Redistribution
 3 アンペイドワークとケアエコノミー
Column② アンペイドワークの時間量を決める要因
第3章 世帯──世帯内意思決定と資源配分
 1 世帯と個人
 2 経済学は世帯をどのようにとらえてきたか
 3 フェミニスト経済学と世帯
Column③ 世帯内意思決定と夫婦の姓
第4章 生活時間──資源としての時間
 1 時間からみえる世界の広がり
 2 経済学における時間の取り扱い
 3 フェミニスト経済学の時間アプローチと政策論
Column④ サモアにおける生活時間調査
第5章 ジェンダー統計
 1 ジェンダー統計とは何か
 2 ジェンダー統計の展開
 3 分析ツールとしてのジェンダー統計
Column⑤ 「21世紀の独立国」の統計調査
第Ⅱ部 領域と可能性
第6章 労働市場──ペイドワークと格差
 1 労働のジェンダー格差
 2 経済学は男女格差をどのように説明してきたのか──性別職務分離と男女間賃金格差
 3 フェミニスト・アプローチ
Column⑥ インドと日本の縫製産業と家内労働者
第7章 マクロ経済──再生産領域を加える
 1 マクロ経済とジェンダー
 2 経済学はマクロ経済をどのようにとらえてきたか
 3 ケアとマクロ経済の相互作用
Column⑦ ケア再配分のマクロ経済効果
第8章 ジェンダー予算──ジェンダー主流化のためのツール
 1 私たちの生活と財政
 2 ジェンダー予算
 3 日本におけるジェンダー予算の取り組み
Column⑧ 草の根レベルのジェンダー予算イニシアティブ──イギリスにおける女性予算グループの活動
第9章 福祉国家──ジェンダー関係を形づくる
 1 福祉国家ジェンダーはどのような関係にあるのか
 2 資本主義経済と福祉国家
 3 福祉国家フェミニスト分析
Column⑨ 中国の保育事情
第10章 金融──金融危機ジェンダー分析
 1 金融資本主義の台頭とジェンダー格差
 2 経済学は金融のジェンダー格差問題をどのようにとらえているのか
 3 金融危機ジェンダー分析──ソーシャル・プロヴィジョニング・アプローチから
Column⑩ マイクロファイナンス(MF)の光と影
第11章 資本・労働力移動──グローバル経済の特質としての女性化
 1 グローバル経済と資本・労働力移動
 2 資本移動とフェミニスト経済学
 3 労働力移動とフェミニスト経済学
Column⑪ 韓国の少子化と国際結婚
第12章 貿易自由化──競争優位の源泉としてのジェンダー格差
 1 貿易のフェミニスト経済学とは何か
 2 自由貿易の理論と自由貿易体制──貿易自由化の恩恵を受けるのは誰か
 3 貿易自由化とジェンダー平等,そしてその先へ──フェミニストの挑戦
Column⑫ ジェンダーに敏感な人権デュー・ディリジェンス
第13章 開発──連帯とエンパワーメント
 1 開発とジェンダー
 2 開発経済学ジェンダー
 3 ケイパビリティとエージェンシー
Column⑬ SEWAの保育所──草の根の実践から政策形成へ
第14章 環境・災害──レジリエンスの構築
 1 地球環境,災害とジェンダー
 2 経済学は環境問題をどう扱ってきたのか
 3 レジリエンス構築へのフェミニスト・アプローチ
Column⑭ 大地震と女性のレジリエンス

<執筆者紹介>
●編者●
◆長田 華子(ながた はなこ)  担当:第1章,第11章,第12章
茨城大学人文社会科学部准教授。お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科修了,博士(社会科学)
〈主要著作〉 『バングラデシュの工業化とジェンダー御茶の水書房,2014年;『990円のジーンズがつくられるのはなぜ?』合同出版,2016年

◆金井 郁(かない かおる)  担当:第1章,第3章,第5章,第6章,第9章
埼玉大学人文社会科学研究科教授。東京大学大学院新領域創成科学研究科博士後期課程単位取得退学,博士(国際協力学)
〈主要著作〉 「人事制度改革と雇用管理区分の統合」『社会政策』第13巻第2号,2021年;「生存をめぐる保障の投資化」『現代思想』第51巻第2号,2023年

◆古沢希代子(ふるさわ きよこ)  担当:第1章,第13章,第14章
東京女子大学現代教養学部教授。大阪市立大学大学院経済学研究科博士後期課程修了,修士(経済学)
〈主要著作〉 “Land, State and Community Reconstruction,”(共著)S. Takeuchied., Confronting Land and Property Problems for Peace, Routledge, 2014;「東ティモールにおける水利システム改革とジェンダー」『大阪経大論集』第68巻第5号,2018年

●執筆者●
◆李 素軒(い そほん)  担当:第10章
帝京大学経済学部講師。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了,博士(経済学)
〈主要著作〉 「重層的信用ネットワークとしてのグローバル金融システムとデリバティブ」『季刊経済理論』第54巻第1号,2017年;「資本自由化以降の韓国における二つの外貨流動性危機の比較分析」『アジア研究』第65巻第1号,2019年

◆市井 礼奈(いちい れいな)  担当:第1章,第8章
ロイヤルメルボルン工科大学大学院講師,UNDP Sustainable Finance Expert. Ph.D.(Economics), University of South Australia, Australia.
〈主要著作〉 Performance Indicators for Gender Responsive Budgeting, Lambert Academic Publishing, 2011; “Gender-Responsive Budgeting in South Korea,” B. Akanji and F. Soetan eds., Gender-Responsive Budgeting in Practice, Rowman &
Littlefield, 2021.

◆斎藤 悦子(さいとう えつこ)  担当:第4章
お茶の水女子大学ジェンダード・イノベーション研究所教授。昭和女子大学大学院生活機構研究科博士後期課程単位取得満期退学,博士(学術)
〈主要著作〉 『CSRとヒューマン・ライツ』白桃書房,2009年;『ジェンダーで学ぶ生活経済論(第3版)』(共編著)ミネルヴァ書房,2021年

◆藤原 千沙(ふじわら ちさ)  担当:第1章,第2章,第3章,第4章,第9章
法政大学大原社会問題研究所教授。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学,博士(経済学)
〈主要著作〉 『労働再審③女性と労働』(共編著)大月書店,2011年;『「子どもの貧困」を問いなおす』(共著)法律文化社,2017年

◆山本由美子(やまもと ゆみこ)  担当:第1章,第7章,第13章
岡山大学グローバル・ディスカバリー・プログラム/大学院社会文化科学研究科准教授。Ph.D.(Economics), The University of Utah, USA.
〈主要著作〉 Trade Winds of Change, UNDP, 2016; “Recognizing, Reducing and Redistributing Unpaid Care and Domestic Work for Inclusive Growth and Sustainable Development,” ADB and UN Women eds., Gender Equality and the Sustainable Development Goals in Asia and the Pacific, ADB and UN Women, 2018.