マイナス金利解除が招く「利上げ観測」
日銀の「マイナス金利解除」は、世論に大きな衝撃を与えた。
もちろん今回の「マイナス金利解除」の直接的な影響は限定的ではあるのだが(事実上、市場における金利は短期も長期も大きな変化は見られない)、この日銀の判断は、さらなる「本格的利上げ」がいつ何時行われても不思議ではないという印象を人々に強烈に与えた。
「日銀17年ぶり利上げ」に感じる“不気味さ” 仮にマイナス金利解除がなければ、俄に本格的利上げが起こるかもしれないという危惧を誰も持つことはない。本格的利上げは当然、マイナス金利解除がなされた「後」のことだからだ。 つまり「マイナス金利解除」は、ロシアにとってのウクライナのように、本格的利上げの前段階として「緩衝地帯」の役割を担っていたのだ。
緩衝地帯の存在は人々の「安心感」のためにも極めて重要だ。例えばロシアはNATO(あるいは米国)の影響力が甚大になり、緩衝地帯が失われるという「観測」を持っただけでウクライナへの進行を開始した。それ程までに「観測」というものは重大な意味を持つのだが、今回のマイナス金利解除もまた、本格的利上げについての「観測」をもたらすことになったのである。
そしてその「観測」は、日本経済にディープインパクトをもたらし得る甚大な力を持っている。
しかし、一般の方には、なぜ利上げ観測にそれ程のインパクトがあるのか、俄に分かりづらいところもあるかもしれない。ついてはここでは改めて今回のマイナス金利解除が招く人々の「利上げ観測」が、それが「観測」であるだけであるにもかかわらず、実際の「賃下げ」、国民の「貧困化」を招く、というプロセスを解説することとしたい。
短期的被害(1):住宅ローン利払い費の拡大
まず、マイナス金利解除がもたらす短期的被害として既に生じてしまっている代表的なものが、住宅ローン利払い費への影響だ。
現時点において具体的に金利が上昇しているわけではないが、「今後金利が上がるだろう」という期待が拡大したことによって、既に「変動金利」でなく「固定金利」を選択する人が増えていることが報告されている。
今後利上げが進めば変動金利の方が固定金利よりも利払い費が多くなるかもしれない、という「危惧」を抱く人が増えているのだ。
現時点における固定金利の利率は、変動金利の利率より圧倒的に高い。したがって、固定金利選択者は、当面の間、変動金利を選択した人よりもより多くの利払いを余儀なくされる。
この例は、今回のマイナス金利解除が、実際に可処分所得の下落をもたらしつつある実例を示している。
短期的被害(2):インフラ輸出の低迷
しかし、短期的被害の中でも特に甚大なのは、外国政府へのODA等における「インフラ輸出」を即座に大きく減少させるという影響だ。
インフラ輸出の多くは今、日本政府が外国政府にインフラ投資等についての融資(円借款)に基づく「援助」(つまりODA)の一環として行われているが、それには以下の二種類がある。
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【アンタイド援助】
日本政府がお金を貸し出された外国政府が、入札を行って業者を選定し、その資金を使ってインフラ投資を行う(日本企業が受注するとは限らない)。
【タイド援助】
日本政府がお金を貸し出された外国政府が、その資金と「日本企業」を使って、インフラ投資を行う(いわゆる「ひも付き援助」)。
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つまり、貸し出された資金は、タイド援助では日本企業の収入となる一方、アンタイド援助では日本企業の収入になるとは限らず、多くのケースで外国企業に流出する。
したがって、海外援助は、アンタイドではなくタイドの方が日本にとっては望ましいのだが、外国政府がタイド援助を許容するには、タイドを選択した際の「メリット」(いわゆる“餌”)が必要である。
そんなタイドのメリットとして日本政府が提供しているのが「金利を引き下げる」というものだ。つまり日本政府は外国に対して「安い金利でお金を貸すから、あなたの国の業者でなく、日本の業者を使ってください」と交渉するわけだ。
だからかつて日本がインフレで金利が概して高かった頃、日本政府は「タイド」での援助がほとんどできなかった(当時はタイド援助は殆どゼロの僅か数%であった)。しかし昨今はマイナス金利のお陰で、日本政府は「タイド」での援助を大量に行うことが可能となった。
例えばJICAでの約2.5兆円に上る海外支援の内、タイド率は2022年度では48%にまで上昇している。これはつまり、マイナス金利のお陰で約1.2兆円程度のインフラ投資を、日本企業が受注していた事を意味する。
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参照)JICA 国際協力機構 年次報告書 2023
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ところが今、(関係者にヒアリングを行ったところ)マイナス金利が解除されたことの煽りを受け、次年度の「タイド」でのODAが急速に減少し、ほとんどタイド案件を作れないという事態に立ち至っている。これは、ODAの担当者たちが、今後の利上げを想定し、そのリスクを回避するために、タイド案件で外国政府と交渉することを忌避しはじめためからだ。
もし仮に、タイドによる円借款でのODAが「ゼロ」になってしまえば、先に述べた1.2兆円の日本企業の収入がゼロになってしまう。
すなわちこれもまた、ゼロ金利解除がもたらした金利上昇の「観測」が、日本企業の受注額を大幅に下落させ、「実際」に国民所得の低迷をもたらす具体例となっているのである。
中長期的被害:財政規律強化による消費・投資の低迷
ここまで述べてきたのは利上げ観測による短期的な被害だが、中長期的にはさらに深刻な影響をもたらす危惧がある。
それは利上げ観測が日本政府の「財政規律」をより厳しいものへと改変させ、緊縮財政を加速し、それを通して「日本の貧困化」を決定的なものとする、というものだ。
今回のマイナス金利解除がもたらした「本格利上げ観測」は、負債を抱えている主体にとってみれば、「利払い費の拡大」を意味するものだ。だから彼らは急速に「財布の紐」を締め始めているのだが、そんな経済主体の一つが「政府」なのだ。
政府は毎年6月に当面の財政の基本方針、いわゆる「骨太の方針」を策定するのだが、今年の「骨太」は特に重要なものとなっている。なぜなら本年は、
・2025年のPB黒字化目標を堅持するか否か
・「3年で1000億円」(つまり年333億円)以下という予算増額上限
という予算キャップルールが切れ、新たな予算キャップルールを2025年度に改めて導入するか否かを決定する年次となっているからだ。
そして、「3月」のこのタイミングにマイナス金利解除が行われ、本格的利上げ観測が生まれ、これから「政府の利払い費が拡大するだろう」という予期を拡大したことで、「6月」のこれらの判断がいずれも「緊縮」的なものとなる可能性を抜本的に高めてしまったのである(むしろ、6月の骨太をめがけて、3月にわざわざマイナス金利解除をしたかのようにすら見える程の“ジャストタイミング”だ)。
つまり、PB黒字化を25年に何としてでも達成し、当面(例えば今後10年間)は年333億円以上の予算増を認めないという予算キャップルールを導入する可能性が高まったのである。
しかも、今回のマイナス金利解除にあたって、植田総裁は、その決定根拠として好景気(賃金と物価の持続的な上昇)が「確認できた」と宣言したのだが(そんな判断は単なる「嘘八百」なのだが)、この宣言がまた、財政規律強化の「口実」となり得るのである。
好景気だったらこれ以上の経済対策は不要だから、財政規律を強化してもよいという論調を導くからだ。
無論、「骨太」の議論はまさにこれからであり、自民党内には財政規律強化に強烈に反対する声も存在していることから、それがどうなるかは現時点では未定だ。
しかし、マイナス金利解除に促されるように、実際に財政規律が強化されてしまえば、(日銀の宣言とは裏腹に)下落し続ける実質賃金も相まって、消費がさらに低迷することを決定的なものとする。そうなれば日本の貧困化は劇的な速度で進行していくこととなる。
民主主義の力で日本経済を守るべし
以上、日銀のマイナス金利解除によって世間に「利上げ観測」が広がり、それが短期的、中長期的に様々な経済被害をもたらすプロセスを解説した。そしてその一部は既に生じ始めている様子も紹介した。
日本銀行は、少し考えればこうした「悪影響」がもたらされることなどスグに分かるはずであるにもかかわらず、マイナス金利解除を行ったのだ。しかも、その解除にあたっては「賃金と物価の好循環が確認できた」という「嘘八百」まで並べ立てた。
つまり彼らは、日本国民が貧困化することを分かっていながら、「何らかの理由」で、嘘をつきながらマイナス金利を解除したのだ。
その理由の詳細(財政規律を強化したい財務省、マイナス金利解除によって直接利益が拡大する銀行業界、景気が良いと宣言してもらって支持率を少しでも上げたい岸田政権の思惑等が想定される)はここでは一旦脇に置くが、これ以上の利上げが、真に経済が再生されるまで進まないようにすることが、日本経済のためには絶対に必要だ。
はたして我々日本国民は、こうした日銀が重大な役割を担う「国民貧困化」の流れを食い止めることができるのだろうか?
そのためにはまず、現下の経済低迷期における利上げは、「観測」が広がるだけでもこれだけの酷い影響をもたらす程に最悪の政策なのだということを、一人でも多くの国民がより深く認識する必要がある。
それができない限りにおいては、誠に遺憾ながら、我々の暮らしは、下らない政治家や官僚や大企業の人々の保身と利益のために、徹底的に破壊されつくすことが、回避不能となってしまうのである。
日本が民主主義国家であることを、我々は忘れてはならない。
藤井 聡(京都大学大学院工学研究科教授)