「医学部を目指した20年」夢を諦めた彼女の行く末 医師になりたかった理由、新たな道を選んだ訳(2024年3月24日)

 

 同高校に進学できた理由として、彼女自身は「問題を起こさない真面目な生徒としてすごし、それなりの内申点も確保できたため」と振り返ります。

 中学生のころから大学に行きたいと思っていたtotoronさんは、1年生から受験対策を始めるようになります。きっかけは「大学入試指導センター」という会社からかかってきた教材の購入の勧誘電話でした。彼女はそこの教材を日々やりこんで、来る受験に備えるようになります。

「高校は1学年9クラス・計270人ほどでした。成績はまたしても真ん中くらいでしたが、大学受験には高校の成績は関係ないと考えていたため、成績のことはあまり気にしませんでした」

■医師の夢を抱くも、勉強方法がわからない

 そんな彼女は、高校2年生になると、医師になるという夢を抱くようになります。左目がぶどう膜炎になった際に、その担当医がとても親切だったことがきっかけだったそうです。勉強に身が入るようになった彼女ですが、勉強方法を相談できるような人は身近にはいなかったそうです。

 「本当に五里霧中といった感じでした。相談しようにも、どうしていいのかがわからなかったのです。高校の同級生に医者を目指す人は皆無、学校の先生に相談なんてとてもじゃないけれどできず、とにかく自分でやるしかない、という感じでした。休日は、個別指導の先生に見てもらったり、梅田にある自習室(大学入試指導センター)で勉強していましたが、到底医学部医学科に合格する学力は身につかず、現役時のセンター試験は、半分も取れませんでした」

 この年は、医学部医学科への受験は断念し、近畿大学の生物理工学部を受けたものの、不合格に終わります。

 totoronさんは、「医学部医学科に行くため」浪人を決意します。

 「センター試験が終わってから、個別指導の先生に、勇気を出して初めて医学部医学科に行きたいと言ったところ、『絶対に行こう!』と応援してくださって、いっそうやる気が湧きました」

 親に浪人の許しを得たtotoronさんは、お年玉貯金を崩して、河合塾に入ります。「ひたすらテキストの復習をしていた」と語るように、朝から晩まで勉強したものの、1浪目は全然成績が伸びなかったようです。

 5浪目は気分を変えて、1浪で通っていた河合塾にふたたび戻る決断をします。さすがにもうこれ以上の浪人はつらいと思ったtotoronさんは、河合塾で京大の理系を目指すコースに入りました。

 「もうこの年は医学部医学科だけではなく、別の学科に受かっても進学しようと思いました。浪人生活でいちばんつらかったのが、この年でした」

 

■断腸の思いで医学部医学科受験を諦める

 彼女はこの年まで落ち続けた理由を、「導いてくださる先生の不在」と考えます。

「当時はネットが発達してないので、周囲に誰も志望者がいない未知の進路に進むためには、手探りで自分の道を開拓しないといけませんでした。受験は才能・能力も必要ですが、いちばん必要なのはノウハウだと感じます」

 この年も焦りから「ずっと自習室にこもって勉強していた」というように努力を続けていた彼女でしたが、京大と医学部医学科の判定はずっとEのままでした。結局、センター試験も7割ちょっとだったために、断腸の思いで京大と医学部医学科の受験を諦める決断を下しました。

 この年、彼女は大阪薬科大学京都薬科大学神戸薬科大学摂南大学を受験し、大阪薬科大学摂南大学に合格して、ようやく彼女は5浪で大阪薬科大学に進学しました。

 5浪で大阪薬科大学に入学したtotoronさんは、ひたすら中学受験の塾でアルバイトをしながら、勉強に打ち込む日々を送ります。「医学部医学科落ちがたくさんいるし、授業自体も面白かった」と満足していた大学生活。しかし、その生活も2年目で終わりを告げます。

「親が大学に行っていないこともあり、薬学部が6年間通うところだとしらなかったんです。1年目は日本政策金融公庫でお金を借り入れてもらい、授業料と入学金を合わせた400万をなんとか大学に納めたのですが、親の事業の失敗もあって、次の年からはとても払えないということで休学しました。

 今思えば、奨学金を調べて駆使したら、卒業まで通えたかもしれませんけどね……。そこから私は、とにかくどこかの大学を出なければいけないと思い、そのためには再度受験するしかないと思って、ひたすらバイトでお金を貯めながら、センター試験を受けました」

濱井 正吾 :教育系ライター

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