作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回はセクシーダンス懇親会などが報じられた国際女性デーに考えた、政治家たちの使う「多様性」について。
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産経新聞が報じた自民党の若手議員による懇親会は衝撃だった。ブラとショーツ(主催者によれば水着)だけを身につけた女性がステージで踊ったり、男性が女性に口移しでチップを渡したり、下着にチップを挟み、女性のお尻を触るなどしたという。産経新聞が公開した写真では下着姿の女性が男性の首に手を回し身体を密着させているのがわかる。主催者は「世界的に活躍されているダンサー」と紹介していたが、記事を読む限り、性的サービスを前提にしたショーだったようだ。
懇親会を企画した川畑哲哉和歌山県議の言い訳も話題になった。
「本年度は多様性、ダイバーシティーというところを、しっかりとテーマを持って、本当に口で言っているだけではなくて、いろんな生き方をされている、あるいはいろんな職業も含めてがんばられている方々にきちっと目が行き届いているかという問題提起をするような、そういう会議にしようということで進めてきました。ダンサーは本当にプロ意識を持ってしっかりとパフォーマンスをされたと考えている」
つまりあの会は、男性が圧倒的多数の自民党議員の集まりで、“男性器”どうしの親睦を深めるという、よくあるホモソーシャルな性差別の会ではなく、さまざまな職業の方々にも目を行き届ける多様性をテーマにした会なのだ、というわけである。
「多様性」という言葉について考えさせられる。 川畑議員に対し「多様性という言葉を利用するな」という怒りの声もあるが、川畑議員の言葉の使い方が間違っているというよりは、この国で気軽に使われてきた「多様性」そのものが、“そういう感じ”なのではないかとも思う。
たとえば、性産業を批判するフェミニストに、「多様性を無視するな」「職業差別だ」と非難する声は大きい。セクシーダンサーを招いた男性議員を不適切だと批判することは、多様性の観点からプロとして働くダンサーを傷つける……という理屈だ。そこにはそもそも女性が排除された場所で物事が決められていく構造や、男女の経済格差、女性の性が商品化されることの批判的な視線はない。
多数派が涼しい顔で使う「多様性」とは、責任者や加害者の顔をぼやけさせ、差別構造の解像度を低くさせる便利な言葉になっているのではないか。「多様性」の濫用で、目の前で踏みにじられている尊厳に鈍くなってしまうような……そんなことが起きているのではないだろうか。
3月8日は国際女性デーだった。岸田さんは、「女性活躍・男女共同参画は、全ての人が生きがいを感じられ、多様性が尊重される社会の実現、我が国の経済社会の持続的発展において、不可欠な要素です」などと、公表したスピーチで述べた。短く、中身の薄いものであった。ここでも安易な多様性が使われている。
多様性を言うのなら、女性議員を増やしてくれよ。世界115カ国が批准している、女性差別を国連に通報できる女性差別撤廃条約選択議定書に批准してくれよ。選択的夫婦別姓を認めてくれよ。女性の声を聞いてくれよ。言いたいことは山ほどある。
さらに岸田さんは、このスピーチを公表した日に共同親権を認める民法改正案を閣議決定した。共同親権を求める運動は「子どもを連れ去るな」と声をあげた男親が中心となって広がってきた。男親への同情的な社会の空気に必死に抵抗してきたのは、DVやモラハラなどで夫と関係を絶ちたい女性や子どもたちである。共同親権がなくても、裁判所は離婚した親と子の面会を積極的に推進してきた。その結果、面会交流日に子が殺されたり、暴力を受けたり、性被害にあったりする事件が実際に起きている。
共同親権とは、「子を両親共に養育する権利」ではなく、子に関わる決め事(引っ越しや進学など)に同居親ではない親の承認が必要になる、ということである。DVが原因で離婚した女性たちにとっては、加害者と関わり続けなければいけない生存の危機なのだ。だからこそ女性たちは抵抗し、悲惨な離婚や悲惨な面会交流を目の当たりにしてきた女性弁護士たちが、その声に寄り添い続けた。
それなのに、この国の首相は国際女性デーの日、自民党のセクシーダンサーとの懇親会が報道された日に、女性たちの声を無視する閣議決定をした。女性差別を絶対に撤廃する意思を表明することなく、多様性を目指す日のように語った。男親の「子に関わりたい」気持ちは聞かれるが、女親の「怖い」という恐怖は聞かれない。差別が隠蔽され、女性の声が消されていくのを見ているようだ。
政治家たちが使う「多様性」という耳に心地よい言葉のもとに、塞がれている声は誰のものなのか。この国のあまりの男尊女卑ぶりに、毎年のことながら言葉を失う思いになる2024年の国際女性デーである。
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