10代将軍家治は田沼意次の言いなりだったわけではない…緊急の登城に遅れた田沼を叱りつけた意外な「将軍力」(2024年2月15日)

■祖父の吉宗から帝王学を授けられ、武芸にも優れていた

 家治は「文武(ぶんぶ)の御芸(おんげい)」に優れていたといいますが、それもまた祖父・吉宗の後見があったからでした。「弓馬」を嗜んだという家治ですが、特に弓は「精妙」であったとされ、若いときに飛ぶ鷹を射止めたとされます。白鳥を「一矢」で射落とし、お供の人々を驚かしたとの逸話もありますので、家治の武芸の達者ぶりが分かります。

 武家の棟梁として必要な要素の1つを家治は備えていたと言えましょう。さて、そんな家治が10代将軍となったのは、宝暦10年(1760)のことでした。父・家重の隠居により、徳川宗家を継承した家治は、その翌日、老臣・松平武元を御前に呼び寄せたそうです。そして次のように語りました。

---------- 「私は年若くして、未だ国家のことに習熟しておらぬ。不幸にして父君(家重)が多病であるので、やむなく、家督を継承した。そのこと、深く恐れて手足の置き所がないほどじゃ。汝は祖父君(吉宗)のときより、政務を担っておる。その職に精錬しておるので、今日より後は、何事によらず、皆、告げ教えてくれ。もし私に誤りがあるならば、ただして欲しい。私もその諫言を納めようぞ」と。(『徳川実紀』)

---------- ■23歳で将軍となり、火事のときは江戸市民の心配をした  国家の政務を担うということがいかに重責であるか、家治はそのことをよく理解していたのです。また、若く経験不足であることを自覚し、年長者を敬い、諫言を受け入れる姿勢を示したことは、家治の謙虚さを現しています。それもまた、上に立つ者の態度として大切なことでしょう。

 江戸時代は火災が頻発した時代でしたが、家治の治世においても江戸で火災が発生し、城下の武家屋敷、町屋が多く焼亡したことがありました。その日、家治は「山に登り、火のありさまを見て参れ」と近習に命じます。年若い近習はわれ先にと、喜び勇んで飛び出して行こうとしたそうです。すると家治は「しばし待て」と言うと、次のように言葉を継いだとのこと。

 「火災は民の憂いの大きなものだ。民の憂いはすなわち、わが憂いである。土地の遠近、火の緩急により対策のすべもあろうというもの。お前たちもその心持ちでよく見て参れ」と。その家治の言葉を聞いて、老臣は「ここまで民の憂いをお考えになられるとはかたじけない」と感動したそうです。

■将軍なのに謙虚すぎて家臣たちも困っていたか

 また、ある年に火災が起こった際には、家治は「政がうまくいっているときは、気候が穏やかで五穀が実り、民衆は苦難を免れるという。しかし、こうも火災が打ち続くのは、私のせいなのではないか。政治が良くないので、天が災害を為すのではないか。私のどのような所が至らないか。また、民衆の憂いとなるような政治はないか。そのようなことがあれば、すぐに教えてくれ」と周りの者に尋ねたとのこと。

 すると、ある者は「民衆は太平の世を楽しんでおります」と答えます。しかし、家治はそれで納得せず「おもねらず、直言せよ」と3度まで下問したそうです。

 が、返答は「申しべきことなし」というもの。家治はその返答に不興だったとのこと。この逸話からも、家治の謙虚さや民衆を思う慈悲が分かるかと思います。

 さて、家治は田沼意次を重用したことで知られています。田沼意次は、側用人と老中を務め、幕政を主導、「田沼時代」を築いたとして史上有名です。家治はその意次の陰に隠れ、意次は威勢を示していたという評価は冒頭で見たとおり。しかし、『徳川実紀』はそのような見解は「あやまり」(誤り)と否定しています。意次は常に家治の英明を恐れていたというのです。

■老中筆頭に抜擢した田沼意次との本当の関係は?

 あるとき、江戸城の近くで大火がありました。しかし、意次はすぐに出仕せず、遅れてしまったのです。家治は「なぜ遅れたのか」と意次を問い詰めたといいます。意次は「拙者の屋敷の近くに火が迫っていましたので、その対策のため手間取りました」と言上します。意次はこう答えれば、将軍は「そうか、それなら仕方ない」と言ってくれるものと思ったかもしれません。

 だが、家治は違いました。

「わが城を大事とするか。それともお前の屋敷を大事と思うのか」となおも意次を追及したのです。意次はそれに返答もできず、恐懼(きょうく)し、汗を拭いながら、退出するしかなかったといいます。このようなことが一度ならず、何度かあったようです。意次に圧倒されるどころか、家治が意次をたじたじにしていたと言えます。堂々とした将軍の振る舞いと言えましょう。威厳もあったのです。

 在日オランダ商館長イサーク・ティチングが家治と江戸で謁見するくだりがドラマで描かれますが、ティチングは家治のことを「家治は名君の評判をほしいままにしている」(ティチング『日本風俗図誌』雄松堂書店、1970年)と記しています。

 指導者としての責任感、慈悲もあり、言うべきことは言い、威厳のある家治。家治とその正室・倫子の夫婦仲は良好だったと伝えられますが、これまで見てきたようなさまざまな逸話を見るに、それもまた当然のように感じられます。倫子は明和8年(1771)、34歳の若さで、夫よりもかなり早くに亡くなります(家治は1786年に死去)。しかし、人格者である良き夫と出会えて、幸せだったかもしれません。 ---

------- 濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう) 作家 1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。 ----------