地震で孤立、でも「集落丸ごと」避難なんて…輪島・南志見の人たちを動かした言葉は「風呂入りに行こう」(2024年2月11日配信『東京新聞』)

能登半島地震では孤立集落が各地で発生した。道路は寸断、通信も途絶え、救助要請すらままならない状況のなかで、石川県輪島市中心部から東に十数キロにある南志見(なじみ)地区は、集落の住民を丸ごと移動させる集団避難に挑んだ。(梅田歳晴)

地震から1週間後に「なんとかしてくれ」

 発生から1週間が過ぎた1月8日夜。携帯電話の電波がかろうじて入る地区の端っこで、輪島市消防団南志見消防分団の金子長継団長(61)が訴えた。「なんとかしてくれ」
 電話を受けたのは、吉田修県議(61)。金子さんは妻の兄だ。9日夜、南志見地区に入り、約200人が避難していた公民館横の体育館で住民の前に歩み出た。
土砂が崩落したままの国道249号(手前)と南志見地区(奥右)。国道は右下が輪島市街地方面、左上が珠洲市方面=1月29日、石川県輪島市で、本社ヘリ「まなづる」から

土砂が崩落したままの国道249号(手前)と南志見地区(奥右)。国道は右下が輪島市街地方面、左上が珠洲市方面=1月29日、石川県輪島市で、本社ヘリ「まなづる」から

 「奥能登全域が被災し、電気、水道はまだまだ来ない。金沢へ移動してもらいたい」。県側と調整し、集団避難実施の内諾を得ていたが、住民を集団移送させる法的根拠はない。この地域選出の議員でもない。批判は覚悟していた。
 大動脈の国道249号が寸断され、電気と水道の復旧見通しは立たない。衛生の悪化が心配だ。「一時的に安全な所に」と伝えた。

◆土地への愛着、慣れない土地への不安

 住民たちは、体育館や旧小学校校舎などで何日も寒い夜を過ごしていた。物資は次第に届くようになったが、炊き出しは約400人分の1日2食が限界だった。雑魚寝で間仕切りもない。足の不自由な高齢者を、荷物用の台車でトイレまで連れて行く避難者もいた。公民館長の浜高元一さん(58)は「いつまで続くのか」と、終わりの見えない恐怖を覚えていた。
 吉田県議が地区を訪れたとき、浜高さんが長期戦を視野に入れようとしていた。説得を受けると誰にも相談せず「乗ろう」と決めた。ただ、吉田県議の住民への呼びかけは「まだ弱い」と感じた。住民には土地への愛着の強さ、慣れない場所に移る不安がある。
避難所となった南志見公民館の出入口。「避難民は0になりました」と紙が張られている。=1月30日、石川県輪島市里町で

避難所となった南志見公民館の出入口。「避難民は0になりました」と紙が張られている。=1月30日、石川県輪島市里町で

 浜高さんは、吉田県議の説明後に言った。「とにかく一回、みんなで、風呂入り行こう」。一部から拍手が上がった。「危ないから移動しよう」と言うより、効果があると考えた。
 翌10日朝、予想以上に多くの人が賛同した。避難所で炊き出しを仕切った堂下美智子さん(66)は、吉田県議の話で初めて危機感を持ったという。「まさか、外がそんな状況だなんて」。情報が閉ざされ、能登半島全体がどんな惨状なのか知るよしもなかった。
 集団避難は11日までにおおむね終えた。最後に浜高さんが公民館に「避難民0(ゼロ)」と張り紙をして鍵をかけた。孤立状態だったほかの地区も続いた。道路復旧などもあり、馳浩知事は19日の記者会見で「孤立集落は実質的に解消した」と述べた。
 金沢市内の避難所で過ごす浜高さんは南志見地区が元に戻るのか見通せない。あの時、集団避難を促した決断は間違いではなかったと感じている。「大変なことは、これからもいろいろある。でも、あの避難所に居続けるよりはマシだ」
 

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