拡散するバッシング、描きにくい皇室像 SNS時代のメディアの役割は 河西秀哉氏に聞く(2025年1月11日『産経新聞』)

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河西秀哉・名古屋大大学院准教授
「いじめ的情報と感じる」-。インターネット上などでのバッシングを巡り、秋篠宮さまは昨年11月の記者会見でこう述べ、その「受け止め」の難しさに言及された。メディアとともに歩んできた近現代の皇室は、これまで国民の声をどのように受け止め、呼応してきたのか。ネットやSNSは、その関係を変化させているのだろうか。皇室とメディアの関係に詳しい河西秀哉氏に聞いた。
■5つの転換点
近現代の皇室とメディアの関係を象徴する出来事を5つ、挙げるとすれば、1つ目の大きな転換点は、大正10年の皇太子裕仁親王昭和天皇)のヨーロッパ外遊だろう。大正デモクラシーの中、同行した記者らは皇太子の一挙手一投足を伝え、その人間的な姿は多くの人々に支持されていった。今につながる「民主的な皇室像」が描かれた原点ともいえる。
2つ目は、昭和20年の敗戦だ。戦争責任論が渦巻き、天皇制の存続すら危ぶまれる中で、皇室はメディアとの関係構築を重視した。メディアもまた、葛藤や批判を帯びつつも昭和天皇の人物像や苦悩を積極的に描き出し、「人間天皇」という概念を国民に定着させ、象徴天皇制の素地を形成していった。
3つ目は、昭和34年の皇太子明仁親王と美智子妃(上皇ご夫妻)の結婚だろう。初の民間出身の皇太子妃の誕生で、皇室と国民の距離は一気に近づいた。一方、この時期に多くの週刊誌が創刊されるなどメディアを巡る状況も変化する。人々の欲求に応える形で、皇室の情報がより消費的に扱われるようにもなっていった。
4つ目は、昭和から平成への代替わりだ。昭和天皇崩御(ほうぎょ)までの自粛ムードもあり、国民は新たな時代の到来に期待を高めていた。新天皇はこれに応え、いわゆる「開かれた皇室」像がより鮮明になっていった。メディアも被災地訪問などを通じ、天皇皇后の「人柄」の報道により重心を置くようになったといえる。
そして最後が、近年のSNSの台頭だ。週刊誌などの記事が切り取られるような形でネット上で拡散され、令和3年の秋篠宮ご夫妻の長女、小室眞子さんの結婚を巡るバッシングが問題化した。
皇室情報を消費的に扱う傾向は強まり、マスメディアの報道よりも、責任主体の曖昧な「ノイズ」のような情報が影響力を持つなど、皇室像を描きにくい難しい時代に突入している。
■メディアの役割は
象徴天皇制を形作ってきたのは皇室と国民の相互のコミュニケーションであり、そこに果たしてきたメディアの役割は大きい。時に協調し、時に批判的な視点も持って皇室を見つめるメディアを通じて、国民は皇室と「共に生きる」感覚を持ち、反対に皇室も、求められる在り方をメディアを通じて模索し、投影してきたのではないか。
宮内庁は昨年からSNSの活用も進めているが、見せたい姿を一方的に発信するだけでは不十分だ。秋篠宮さまのバッシングに対するご見解や「皇族は生身の人間」という率直な言葉は、メディアとのやりとりの中で明らかになった。
既存メディアには、「消費」ではなくジャーナリズムの観点から、国民が皇室について考え、議論していくのに必要な情報を引き出していく力が求められている。(聞き手 緒方優子)
◇河西秀哉(かわにし・ひでや) 名古屋大大学院人文学研究科准教授(近現代史)。近著に「皇室とメディア-『権威』と『消費』をめぐる一五〇年史」(新潮社)。
■30年で繰り返し問題に 宮内庁、反論から発信強化へ
皇室へのバッシングはこの30年ほど、繰り返し問題となってきた。宮内庁は平成11年にホームページ(HP)を開設して以降、個別に抗議や反論を掲載してきたが、ネット上で急速に拡散する投稿への対応は難しく、近年は情報発信強化にかじを切っている。
昭和から平成への代替わり後、上皇ご夫妻のなさりようなどを巡ってバッシングが相次ぎ、上皇后さまが倒れられた。宮内庁は6年、「報道室」を新設し、11年にはHPを開設。19年以降、報道や書籍への反論や訂正要求も掲載してきた。
29年の小室眞子さんの婚約内定では、相手側の金銭トラブルなどを巡る雑誌報道を契機に、ネット上などで誹謗(ひぼう)中傷とみられる投稿が広がった。眞子さんは複雑性PTSD心的外傷後ストレス障害)と診断され、令和3年、宮内庁は「情報発信の研究」を行うと表明。5年に「広報室」を新設し、6年にはインスタグラムの運用を開始した。フォロワーは現在180万人を超え、幅広い世代への発信強化を進めている。