太平洋戦争中に旧日本軍が英軍の拠点攻略を目指して失敗し、多数の死者を出したインパール作戦から80年。独断で作戦から師団を撤退させた佐藤幸徳中将(1893~1959年)が眠る山形県庄内町の寺に、父の思いを継ぐ1人の男性が墓参した。「命の恩人に、やっとありがとうと言えた」と手を合わせた。
「佐藤幸徳将軍追慕之墓」
つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め
インパール作戦のインド国コヒマ攻略戦において将軍の撤退決断により生かされた我らここに感謝の誠を捧げる
昭和六十年九月十六日 第三十一師団生存将兵有志建之
「生き延びることができたのは佐藤中将のおかげ」。ほとんど戦争の話をしなかった父一男さんは晩年になってぽつりと口にした。
父が家族に話した内容によると、撤退を命じられた当時、兵士たちは一様に驚いた様子で「これで命が助かるかもしれない」と話していたという。死者が相次いだ撤退ルートの「白骨街道」を進む中、現地の農民が食料をくれたり、かくまってくれたりした。
慶博さんは2015年、ミャンマーの日本人墓地を訪ねた。また、戦争で犠牲となる弱い立場の子供たちの役に立ちたいと、小児病院でのポリオワクチン接種などの医療協力を個人的に続けている。
この日の墓参後、慶博さんは「父が生きていたことで、私の命も今ここにあり、感謝しかない。元気でいる限り父との約束として、ミャンマーでの医療支援を続けていきたい」と話した。【長南里香】
勇猛と正直;佐藤幸徳中将手記 単行本 – 2024/8/26
佐藤 幸徳 (著), 佐藤 彰一 (著)
最も拙劣で無責任な作戦として名高い「インパール作戦」の師団長・佐藤幸徳中将が後世に残していた歴史の真実。そして「抗命事件」の真相とは?本書は、太平洋戦争のあいだの「インパール作戦」に参加した三軍団のひとつ第31師団・烈師団を指揮した師団長・佐藤幸徳中将が書き残した手記と、彼が戦後に発表した二篇の論文を収録し、そして佐藤中将の大甥にあたる歴史家・佐藤彰一氏(名古屋大学名誉教授)が大伯父の人となりについて記した論攷で構成されている。佐藤中将は昭和34年に没したが、その数週間前にほとんどの書きものと手紙類を焼却するよう指示した。こうした事情から佐藤中将の発話は、本書の自筆原稿と、印刷された二篇の論攷しか存在しない。
第1部は「手記」と雑誌「新民」(昭和28年)「青淵」(昭和29年)に寄稿した論文。
最終的に佐藤中将は経済的な困窮に陥り、昭和34年2月26日、肝硬変で病死する。佐藤中将は死の直前まで日本軍上層部を批判し続けたが、特に牟田口廉也と第15軍司令部に対しては厳しく、手記には「複雑怪奇、奇想天外の陰謀」などと書き残しており、あらゆる媒体を通じて激しい言葉で牟田口を批判していたのであった。
佐藤幸徳中将追慕の碑 (さとうこうとくちゅうじょうついぼのひ)
碑文
同師団は、20日分の食料と重装備の兵器を担い、峻険なる山岳地帯を踏破、インパールの前哨基地であるコヒマを攻略したが、航空機と大戦車部隊に援護された英国軍の反撃に遇い、雨季のジャングルでの戦闘が、2ヶ月も続いた。
佐藤師団長はこの状況を軍司令部につぶさに連絡したが、的確な指示が得られず、遂に「これ以上部下を無駄死にさせることは出来ない」と決断しその責任を一身に負い、食料、弾薬の補給できる地点への撤退を命じた。
しかし、雨季のこの撤退行動は悲惨を極め、戦後「白骨街道」と呼ばれた。
佐藤師団長はその途中抗命のかどで解任されたが、この碑は、この英断により生き延びた1万数千余りの兵士達が、一身を犠牲にして全軍を救った佐藤幸徳中将の恩情を偲び、墓前に昭和60年9月16日その有志が集い、この「追慕の碑」を建立し感謝の気持ちを込め故佐藤幸徳中将の冥福を祈ったものである。
付記
幸徳中将は郷土が生んだ誇り高き武人であり、偉大な先人として後世に語りついでいきたい。
平成20年12月 佐藤幸徳顕彰会
お問合せ先;梅枝山乗慶寺(バイシザンジョウケイジ)電話番号0234-42-3410