美智子さまが「何年にもわたって、誕生日に花を贈り続けた相手」をご存じですか? 上皇ご夫妻にとって大切だった「意外な存在」(2024年11月2日『現代ビジネス』) 

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〔PHOTO〕Gettyimages
明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下巻・岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。
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この記事では、1960年代の半ば、上皇ご夫妻が、いくつかの喪失を経験したころのエピソードを、『比翼の象徴』の中巻より抜粋・編集してお届けします。
旧皇族をめぐるスキャンダル
一九六六(昭和四十一)年の皇室の正月行事も滞りなく終わった一月二十八日、皇室に激震が走った。明仁皇太子の姉・和子(
かずこ。1989年5月26日。59歳没。昭和天皇香淳皇后の第3皇女子。第125代天皇明仁上皇)と常陸宮正仁親王は弟、第126代天皇徳仁今上天皇)と秋篠宮文仁親王は甥)の夫である鷹司平通(としみち)が同日夕、千駄ケ谷の「バーのマダム」宅で、マダムとともに遺体で発見されたのだ。死因はガスストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒で、二十七日午前四時から五時の間に事故死したとみられた。
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鷹司平通 鷹司和子 夫妻
平通は交通博物館に勤務していたが、二十六日は自宅に帰らず、二十七日から無断欠勤していたため博物館が捜索願を出していた。旧華族天皇の娘の夫がバーのマダムと遺体で見つかったということで、事件は週刊誌でスキャンダラスに報じられた。事故死という発表を疑い、心中ではないかという見方もあった。
当人同士の面識がないまま決まった「設定された結婚」で、もともと人とのコミュニケーションに難のあった和子と平通の夫婦仲に問題があったのでは、という憶測も流れた。和子は一度妊娠したが死産しており、二人の間に子供はなかった。明仁皇太子の学友の作家・藤島泰輔は週刊誌に「“デモクラシー”の生んだ悲劇」という一文を寄せた。
終戦によって雲上人から庶民へ舞い下りた鷹司家と、象徴として存続した天皇家――平通氏が二つの面を併せ持つことになったところに宿命的なものを私は感じる。旧皇族や旧華族が平民になって、皇族だけが孤立した存在になった。これがデモクラシーだといわれればそれまでだが、旧皇族、旧華族というパイプラインがなくなって、天皇家と庶民の間がかえって遠くなったこと、それにデモクラシーの名のもとに女性週刊誌などが執拗に天皇御一家の行動ぶりを追いかけ、天皇御一家はかえって御窮屈になったことが、平通氏の悲劇の根本原因ではないかと私は思う。デモクラシーという言葉の理解が、対天皇家に限って「庶民の好奇心の満足」という形で現れるのは、まったくお気の毒というほかはない」
平通の葬儀が終わったあとの二月十六日、皇太子夫妻は鷹司家を訪れ、和子を見舞った。以後、美智子妃はこの薄幸の義姉に常に寄り添っていくことになる。
二月中旬の新聞に美智子妃が高校生時代に作詞した「ねむの木の子守歌」の著作権を日本肢体不自由児協会に寄付したという記事が載った。礼宮の誕生祝いに市民作曲家が詞をもとに作曲したもので、レコード会社四社が発売を予定していた。レコードは吉永小百合梓みちよ、西田佐知子、天地総子錚々たるスターの競演で三月初めから一斉発売されたが、前評判ほどにはヒットしなかった。「庶民の好奇心」はあくまで美智子妃に向いており、詞や曲ではなかった。
ねんねの ねむの木 眠りの木
そっとゆすった その枝に
遠い昔の 夜の調べ
ねんねの ねむの木 子守歌
薄紅の花の咲く
ねむの木陰で ふと聞いた
小さなささやき ねむの声
ねんね ねんねと 歌ってた
故里ふるさとの夜の ねむの木は
今日も歌って いるでしょうか
あの日の夜の ささやきを
ねむの木 ねんねの木 子守歌
 ねむの木の子守歌 (詩 美智子上皇后陛下 / 曲 山本正美)
 
大切な人の死
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小泉信三〔PHOTO〕WikimediaCommons
四月八日、浩宮学習院初等科に入学した。紺の詰襟、桜の帽章の制帽姿の浩宮は皇太子夫妻に付き添われて初等科の門を通り入学式に臨んだ。夫妻は一般の保護者と同じように参列した。皇室の歴史ではきわめて異例だった。浩宮は「東」「中」「西」の三組中の中組。明仁皇太子のときと違い、クラスは男女半々の四十四人で、席は窓側から二列目の前から三番目になった。
翌九日から浜尾東宮侍従皇宮警察の護衛官が付き添って、徒歩での通学が始まった。初等科は東宮御所から目と鼻の先のため、明仁皇太子の意向で徒歩通学になった。交通規制はいっさいせず、信号の横断歩道は手をあげて渡った。また、入学式では新調した制服だったが、通学が始まってからは、かつて明仁皇太子が使っていた「お古」を着た。
四月二十六日、東宮御所小泉信三の時事問題の進講があった。明仁皇太子も小泉も、これが最後の顔合わせになるとは夢にも思っていなかった。
小泉は五月二日、長女の加代に伴われて慶應義塾大学病院で心電図を撮影した。ときどき「胸がしめつけられるようなことがある」と口にしていたからだ。このときは異常なしの所見だった。十日夜半、小泉は胸の痛みと苦しみを訴える。間もなく発作は治まって静かに眠った。しかし、翌十一日午前七時過ぎに再び発作が起き、七時半に妻・とみ一人に看取られて息を引き取った。心筋梗塞だった。享年七十八歳。空襲のやけどで眠っていてもまぶたが閉じないので、死んだときはまぶたを縫ってほしいと伝えていたが、そのまぶたはしっかり閉じられていた。
小泉の死は午前九時に当直の侍従から明仁皇太子に伝えられた。書斎で本を読んでいた皇太子はしばらく何の言葉も発しなかった。この日は学習院初等科の参観日で、美智子妃は母親の一人として浩宮のクラスの授業を参観していた。参観中に侍従が訃報を伝えると、美智子妃は動揺を隠せなかったという。
夫妻は午後二時半過ぎに広尾の小泉邸を訪れた。皇族が民間人を弔問したのはこれが初めてだった。夫妻は東宮御所の庭で育てた白バラ、カーネーションなどの花束を霊前に供えた。遺体が安置されている日本間で、とみ夫人が小泉の顔にかけられていた白布を外すと、夫妻は五分ほどの間、身じろぎもせずその顔を見つめていた。美智子妃は一輪の白バラを小泉の胸の脇にそっと置き、ハンカチで目を押さえた。
十三日、クリスチャンだった小泉のため飯倉の日本聖公会聖アンデレ教会でミサが行われたあと、遺体は桐ケ谷火葬場で荼毘に付された。十四日午後には青山葬儀所で葬送式が執行された。当初、皇太子夫妻は一般参列者とともに参列することを強く望んでいた。しかし、警備上の問題があるため断念。午前中に小泉邸で二度目の弔問を行った。
「〔恩人である〕小泉さんの訃報に接した陛下〔明仁皇太子〕と美智子さまのお嘆きは、想像に余りあった。しかもそれにとどまらず、皇室内で孤立を深める美智子さまにとって、ご自分の最もよき理解者であった小泉さんの死は、陛下を別にすれば最大の後ろ盾を失ったに等しいことだったに違いない」と浜尾実は書いている。
後日、明仁皇太子は弔問時の気持ちを短冊に書いた歌をとみ夫人に贈った。
霊前にしばしの時を座り居(を)れば耳に浮かびぬありし日の声
政府は小泉への叙勲を検討していたが、とみ夫人は故人の意志として辞退を伝えた。
小泉の随筆に「戦時の花」という小編がある。戦局が悪化していた一九四五(昭和二十)年一月、花屋に花を買いに行ったことを書いたものだ。「戦争のこの危急の段階に妻の誕生日に花屋に花を買いに来たということが何か攻撃を無視した行為のように思われて、それが愉快であった」と小泉は書く。買い求めた花は水仙、白と淡紅(うすべに)の花をつけたあらせいとうと淡紫の小花のむらがり咲くエリカだった。
小泉が他界した翌年の夫人の誕生日、小泉家に水仙とあらせいとう、淡紫のエリカの花束が届けられた。贈り主は美智子妃だった。明仁皇太子と相談の上だったのかもしれない。この贈り物はその後何年も続けられた。美智子妃は翌年の小泉の一周忌に歌を詠んだ。
ありし日の続くがにふと思ほゆるこの五月日(さつきび)を君はいまさず
六月七日、小泉の後を追うように安倍能成が死去した。この年の二月末から入院中だった安倍を小泉は死の前日に見舞っており、「〔小泉は〕お別れに来てくれたようだね」と安倍は沈みがちに語っていた。皇太子、常陸宮の両夫妻は同日、やはり異例の弔問を行った。明仁皇太子の青年時代を支えた教育者二人がこの世を去った。皇太子はもう助言者なしで、自身のあり方を考えていく時期になっていた。
明仁皇太子が支えとするもっとも大きな存在は美智子妃だった。ただ、妃はまだ懊悩から脱し切れていなかった。神谷美恵子との面会は続いていた。神谷は田島への手紙で面会の様子をつづっている。
「妃殿下にお目にかかる度毎に、お悩みのお打明け話が多くなり、どうしてさし上げたらよろしいのか思いあぐねますが、私の立場と致しましてはたゞ「はけ口」となること、そしてできれば相対的な現実を超えた世界にやすらぎを発見されるようにおさそい申上げることのみかと存じております」(四月十八日付け)
「お目にかかります度毎に、せきを切つたようにるるとしてお悩みをお話になり、それが次第に多くの時間を占めるようになりました。朝おき出せないほどの憂うつにも屢々(しばしば)襲われになることを伺いまして、何とかしてさし上げたいと先日考えた次第でございます。〔略〕妃殿下の最大の悲劇は「孤独」でいらつしやることのように思われます。お悩みはもちろんのこと、たとえば詩とか文学とか、ご関心のふかい題目についても気楽に話合える相手がいない、と先日仰せでございました」(四月二十一日付け)
井上 亮(ジャーナリスト)