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明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。
あまり知られていませんが、太平洋戦争の開戦に先立ち、宮内省のなかでは、東京が空襲されたときにそなえて明仁皇太子の「避難先」を選定していました。そのプロセスは、どのようなものだったのか……? この記事では、そのプロセスの「迷走ぶり」を描いた部分を、同書より抜粋・編集してお届けします。
明仁皇太子は当時7歳で、意外にも「ひ弱な皇太子」とされていました。
天皇のための「防空施設」
一九四一(昭和十六)年四月二十九日、裕仁天皇は満四十歳となった。日中戦争は収束の目途が立たないままだった。英米が支援する蔣介石政府への物資輸送ルート(援蔣ルート)を断つための日本軍の北部仏印進駐、両国と敵対関係にあるドイツとの日独伊三国同盟締結などで冷え込んだ日米関係を打開するための交渉が同月から始まっていた。日本の運命を左右する長く苦しい交渉となる。皮肉にも天皇不惑の年は、人生最大の懊悩の年となる。
『昭和天皇実録』によると、天皇は前月三月二十二日に皇后宮大夫(侍従次長兼務)の広幡忠隆に吹上御苑内に防空施設を建設することについて聞いている。二十五日に松平恒雄宮内大臣が防空施設「御文庫」を建設することを奏上した。すでに宮城内に防空施設が必要とされる戦時体制に入っていた。
御文庫の工事は五月二十一日に始まり、七月十五日に完成した。地上一階、地下二階、東西七十五メートル、奥行き二十メートルの鉄筋コンクリート造りで、五百キロ爆弾に耐えられるよう施工されていた。地下二階は天皇、皇后が避難する防空壕になっていた。
皇太子の「健康不安」
そういう時期でも日曜の一家団欒の時間は守られていた。皆で昼食をとったあとに映画を見ることが多かった。ただ、明仁皇太子だけ脳貧血で参加できない日(五月二十五日)もあった。皇太子の健康状態はまだ安定していなかった。
入江相政侍従は五月二十七日の日記に「山田君〔傅育官〕が来て、その後の〔東宮〕仮御所の状況を話す。あきれ果てたことばかりで今始まつた事でもないが、石川さんが引込まない限りは東宮様の御傅育は全く出来ない」と記しており、皇太子がひ弱なのは石川の過保護方針にあるとみていた節がある。
傅育官は皇太子が自分で日課を定めるように仕向けた。できあがった日程表は、午前五時半に起床。勉強、運動、食事、自由時間が規則正しく配され、午後八時に就寝というものだった。朝夕には御用邸の御日拝所で両親の天皇、皇后の「お写真」に拝礼した。
晴れの日、皇太子は海水着を身に着けて附属邸から一直線に海に駆け込んだ。歓声を上げて首の深さまで進んだ。傅育官が側に付き添う。御用邸には和船があり、皇太子はこれに乗って釣りを楽しんだ。
八月二十一日付けの中外商業新報朝刊一面には「凛々し陽やけの御顏 皇太子樣、盛夏に御鍛鍊」の見出しとともに、沼津の海を笑顔で泳ぐ皇太子の写真が大きく掲載されている。
殿下の御水泳場は御用邸崖下の海岸で一般の海水浴場から僅か一町余り離れたところで海水着の上に帷子のやうな白地の上衣を召され鍔廣(つばひろ)の麦藁帽子を着けさせられた殿下が老松の翠深い西附属邸から丈余の石崖づたひに御出ましになり御水泳遊ばす御模樣も間近に拜される。十九日も午後二時十五分いつものやうに御出まし遊ばされ、四、五尺のところから御身輕に崖を降りさせられ、上衣も帽子も御自身でとらせられて長さ約二尺の玩具のヨツトを御かゝへ遊ばされ、波を分けて一米、二米と肩の深さまで海中に入らせられた、側近も、もう一つのヨツトと二つの小舟を持つて御供申上げたが、殿下には上半白、下は黒の海水着を召されてもうすつかり御陽焦け遊ばして烈日に光る海中で御元氣に遊ばせられる御姿に畏れ多きことながら海國少年の凛々しさを拜し奉るのであつた
自然は海だけではなかった。標高百九十三メートルの香貫山や二百五十六メートルの徳倉山といった小学生のハイキングに手ごろな山があった。皇太子は元気よく往復路を歩きとおした。一カ月余りの沼津滞在で、皇太子は健康的に日焼けし、体力を増していった。
迷走する「避難計画」
皇太子が沼津で夏休みを過ごしていた七月下旬、宮内省と軍の間で空襲に備えた避難計画が話し合われていた。しかし、避難計画は二転三転することになる。
六月下旬、同盟国のドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まっていた。米国との関係も悪化しており、軍はソ連もしくは米国に空襲された場合、数回の爆撃で東京は灰燼に帰すと分析していた。天皇のための防空施設「御文庫」と同様に皇太子や皇太后、各皇族の防空施設も赤坂離宮などに建設することが計画されていたが、皇太子らについての宮内省の基本的な考えは東京からの避難で、移動先の候補は沼津と日光だった。
しかし、八月になって日光については侍医から反対意見が出る。冬季に寒冷となる日光は風邪を引きやすく虚弱な明仁皇太子には無理だというのだ。このあと避難先の議論は迷走する。軍から米国と開戦した場合、伊豆半島以東の海岸は危険との見解が示される。沼津は候補から外れ、那須、日光、箱根、厚木地方が「有望の地」とされた。
しかし、日光は中禅寺湖近くに古河電工の精銅所など空襲の目標になる施設があり、またもや不適当との意見が出される。宮内省では沼津より西の静岡県興津が新たな避難先候補地として浮上する。侍医は温暖な興津が最適という意見で、やむを得ないときは浅川(八王子市内)という意見だった。興津での居住場所は維新の元勲、井上馨の別邸が最上とされた。
ところが省内の打ち合わせで宮内大臣から神奈川県湯河原の奥の「広河原」を候補とすべきという意見が出る。議論の結果、興津を優先することになったが、いったん日光に内定し、天皇に内奏もしたのに興津に変更するのは軽率ではないかとの見方も出た。そこで侍従職などが興津の井上邸を検分して結果を出すことなる。
八月二十六日、小倉庫次侍従らが興津の井上邸と伊藤公(伊藤博文の養子の博邦)の別邸を検分したが満足できるものではなかった。その報告は「防空濠構築予定ノ裏山ハ他人ノ所有地ナルノミナラズ、ソノ間ヲ県道ガ横断シ、別邸地ハ略平坦ノ関係上防空濠築造ノ適地存セズ、又、別邸地ハ何レヨリモ見通サレ、秘匿ノ目的ニ適セズ、不合格ナリトシ、又興津伊藤公別邸ハ駅近ク、建物狭ク不可ナリトス」であった。
これには浅川と新たに御料牧場のある三里塚方面を避難地として研究するとの意見が付された。九月になり宮内省は陸海軍に浅川、三里塚両案について見解を打診した。海軍は両案とも支障なしの回答だったが、陸軍は浅川、三里塚とも戦時には上空で空中戦闘が行われる可能性があり、危険との意見を返してきた。
「聖断」の現場が造られる
写真:現代ビジネス
このような思案を続けている間、戦争へと日本の命運が向かいつつあった。九月六日の御前会議で「帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為対米、(英、蘭)戦争ヲ辞セサル決意ノ下ニ概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」とした帝国国策遂行要領が決定された。
〈よもの海みなはらからと思うふ世になと波風のたちさわくらむ〉
この前日、天皇は吹上御苑の「陸軍戊号演習場」を見学している。戊号演習は情報秘匿のための符丁で、八月十二日から近衛第一師団によって進められていた大本営会議室「御文庫附属室」の工事だった。御文庫から北に約百メートルの地主山の地下に造られた防空会議室で、戦時にはここで御前会議などを行うことが想定された。御文庫附属室は九月三十日に完成する。天皇が戦争回避に一縷の望みをかけている間も戦争への備えは滞ることなく進められていた。
太平洋戦争末期、移動中の天皇を空襲から守るため、御文庫と御文庫附属室の間に地下トンネルが造られる。御文庫附属室の防護層は最終的にコンクリートなどで十四メートル以上の厚さまで補強され、十トン爆弾の攻撃に耐えられるようにされた。四年後、ここで戦争終結の「聖断」が下されることになる。
井上 亮(ジャーナリスト)