【“党利党略“選挙は私たちの責任】政治は「なる」でなく「する」もの、信を問われている日本のデモクラシー(2024年10月21日『Wedge(ウェッジ)』)

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早期の解散総選挙を打って出た石破政権に対し、国民はどう判断するのか。日本の政治が試されている(代表撮影/ロイター/アフロ)
 石破茂新政権は首班指名同日に解散総選挙を宣言した。この事態を前にして筆者が想起するのは、1997年にフランスのシラク政権が8割以上の与党議席を持つ中万全の態勢で行った抜き打ち解散選挙で大敗北し、政府首班の後退にまで至ったドラマチックな政治劇だ。
 筆者はそこに「デモクラシー」の本質の一端を見た気がした。その意味で今回の解散総選挙は興味津々だ。日本のデモクラシーが試されている、と言っても過言ではない。
党利党略とデモクラシーの大義
 今回の解散総選挙については、野党はこぞって与党自民党の党利党略だと非難する。「国民に信を問う」というのであれば、きちんと議論をし、残りの任期1年の間に裏金問題で招いた政治不信を回復させるための努力する姿を国民に評価してもらうというのが正論であろう。
 前選挙時にも言われたことだが、立憲民主党野田佳彦代表の言葉でいえば「ご祝儀人気にあやかる選挙」というのは正鵠を射ている。支持政党を超えて理屈の上では、野田氏の政府批判に賛同する人も多かったのではないかと思う。
 しかしその「正論」がなかなか通りにくい。むしろそれを前提としない言動の方が主流ではないかと思われる向きもある。正論は正論だが、喫緊の課題の方が重要だ。
 しかも政局や社会が動揺するのは避けたい。安定が担保される範囲での選択にしたい。したがって目先の「無難な」解決論に議論は終始しがちとなる。
 「正論」は頭でわかっていてもなかなか投票行動には反映しない。しばしばいわれる保守的な日本のデモクラシーの特徴であり、限界であるといってもよいが、だとすれば日本国内でのデモクラシーの意味そのものが問われるべきではないか、と筆者は思う。
 もちろん、今回の解散総選挙は合法だ。裏金事件をめぐる政治不信も現実だ。しかし議論の本質はもっと根の深いものではないか。
 筆者は今般の事態は日本的なデモクラシーそのものの限界に対する危機ではないか考える。抽象的な言い方だが、その背景には「政治の大義」そのものの議論が欠落しているからだ。
党利党略と国民が判断した1997年仏総選挙
 1997年6月、フランスの抜き打ち解散選挙は予想を覆して、ジョスパン第一書記の率いる社会党が勝利した。フランスの国民議会議員の任期は5年であるから、任期満了まで10カ月を残して万全の態勢で与党が臨んだ選挙だったが、選挙の結果は議会の早期解散を決断した保守派シラク大統領の判断の誤りを証明した。逆に選挙代表の選出でも難航し、凋落著しかった野党社会党は4倍近くの議席増となった。
 保守派与党連合は、国民議会577議席中、社会党を中心とする左派全体の319議席社会党245議席)に対してわずかに257議席国民戦線FNを除く)を獲得したにとどまった。前回93年3月の総選挙では、当時ミッテラン大統領の与党だった社会党は282 議席から 67議席へと議席を激減させ、他方で野党保守連合は267 議席から485 議席へと激増、8割政党となっていたので、予想外の野党の大逆転となった。その背景には国民の与党に対する「制裁」の意識があった。
シラク大統領の「狡知」を忌避した国民
 シラク大統領が93年の総選挙で得た8割の与党議会勢力を目減りさせても、翌年の98年3月に予定されていた国民議会選挙の繰り上げを決断したのは単一通貨ユーロ導入を何としても実現するためであった。とくに財政赤字を3パーセント以内に抑え込むという共通通貨導入の条件は各国に重くのしかかっていた。フランスもその例外ではなかった。
 当時の経済的苦境が続いていけば、国民はユーロ導入に不安を持つであろう。そして選挙が予定通り実施されると、それは通貨統合決定の日程と重なり、保守派の敗北は不可避となるという悲観的な見方があった。
 加えて公務員削減策に対する反政府抗議活動が頂点に達した96年秋に比べると、この時期に大統領・首相の人気が上向き始めたという楽観的認識もあった。そして、選挙の前倒しは準備不足の野党を出し抜く有力な手段でもあった。
 フランスの財政赤字は94年にはピークに達していた。95年大統領就任後、シラン政権は、TVA(付加価値税、2%)、富裕税・法人税(10%)、煙草・燃料税・ガソリン価格・貯蓄税などの引き上げ、最高課税率の引き下げ(累進課税対象の拡大)、貯蓄税制優遇措置廃止(動産非課税額の上限引上げ)、赤字のかさむ社会保障費部門については、社会保障債務返済税(RDS)の導入、医薬品節約、無駄な出費を避けるための医療保険手帳の義務化などの増税緊縮措置を実施した。さらに、政府は、97年度にはほぼ全省庁に対して行なわれる公務員削減を歳出削減の中心とした。
 増税・公務員削減・社会保障費削減などの措置は厳しい生活を強いられる国民の反発を買った。とくに、歳出削減のため公務員年金積立期間延長や公務員給与の凍結策(96年度)に対して労組による全国規模のゼネストをはじめとして激しい抗議活動が展開された。
 95年11月から12月には都市の機能は麻痺した。96年10月と11月にも公務員の大幅削減案に対する抗議活動は再びパリをはじめとする都市を混乱に陥れ、97年にかけて反政府抗議行動は活発化し、社会騒然の観は否めなかった。
 ユーロ導入のための緊縮財政政策自体は間違ってはいないが、国民に不人気であることはどこも同じだ。そうした苦渋の政策を推し進めるための多数派維持、政権延命策として勝てるうちに選挙を実施する。それは政治家としては当然の論理とも言え、それ自体デモクラシーの手続きを逸脱しているわけではない。しかしその手法はいかにも為政者側のやり方だった。
 まだ1年任期を残しているうちに抜き打ち的に実施した総選挙を国民は嫌ったのだ。このシラクとジュペのいわば「狡知」は見事に失敗した。
 エリートたちが庶民を無視して実施した選挙は、上手の手から水がこぼれた感もあった。つまり緊縮政策を受け入れるか否かという解散の大義をめぐる議論とそのためには任期という原則を無視して勝てるうちに選挙を行うという党利党略に国民はノーと言ったのだ。
 それ以後、本年6月までフランスでは任期満了前の延命目的の解散総選挙は行われなくなった。国民の判断を前にして余りにもリスキーだからである。
まず選挙ありきの日本政治
 翻って日本の政治を考えた場合に、むしろ近年任期満了選挙の方が少ない。政党事情優先の選挙が当たり前になった感がある。
 2014年の安倍晋三首相の下で自民党が大勝した時も、消費増税先送りを餌に、争点が明確でないまま抜き打ち選挙となった。「政治と金」疑惑のかかっていた松島みどり前法相(当時)や小渕優子経産相(同)なども当選した。
 そして21年10月に発足したばかりの岸田文雄内閣は発足10日後に解散総選挙を発表した。このときは任期満了を直前に控えた選挙となったが、政権発足後の「ご祝儀相場」を狙った選挙だったことは明らかだ。この時も自民党は勝利した。
 デモクラシーには正当性は不可欠だ。自民党総裁任期が満了し、石破総裁・総理が就任したから、民意を問うために総選挙を行う、という。筆者にはこれがどうもわからない。
 不人気の岸田首相が国民の信を問うために解散総選挙に打って出るという話ならばわかる。しかし、岸田首相の下では次の選挙は敗北する、それでは戦えない、という方向に論点は向かい、勝てる見込みのあるうちに解散となった。
 これは政治の成果主義ではなく、まず選挙ありきという本末転倒の議論だ。それはたしかに違法ではない。しかしそれでは政治の大義、デモクラシーの大義は失われたままだ。
試されている有権者
 「勝てるときに選挙する」という論理からは、真の意味での「国民に信を問う」ということにはならないはずだ。自民党は政権与党だから、国民の信頼回復のための政治を任期ぎりぎりまで行うという姿勢が当たり前のはずである。
 我が国のデモクラシーのポイントはそこにある。人気がなくても、信頼が不十分でも選挙に勝てるのである。
 それはフランスのように一人一区の二回投票制で勝ち負けが僅差でも明確に議席数に反映するという制度ではないからだが、問題は制度だけではない。世論調査にみるように、石破総裁誕生の第一の理由として「適切な人がいない」というのは、国民意識の問題だ。必ずしも政治家だけの問題ではないように筆者は思う。
 「政治家・政府に任せた」、あるいは「政府が決めたことだから仕方ないので従う」というのはそもそもデモクラシーの精神ではない。首相にふさわしい人を育てる。また不十分であっても自分たちで育てていく。そうした意識が日本のデモクラシーには弱いように思われる。
 またフランスの90年代の例になるが、シラク、オランド、マクロンらフランスの歴代大統領や大物実業家を輩出するエリート校パリ政治学院学長は、30代の官僚出身の卒業生に決まった。筆者も彼と話す機会があったのでそれなりの人物であることは了解した。しかし同校の旧知の看板教授に「若くて大丈夫なのか。経験不足ではないのか」と質問したところ、彼は「その通りだ」と答えて、「みんなで話し合って優秀な卒業生だから連れてきたのだ」と続けた。そして「そのときみんなで彼を支えることに決めたから大丈夫だ」と加えた。
 若いから経験が足りないので、年功序列の組織に揉まれて経験を積ませ、その後昇進させるという発想ではなかった。選ばれるものにその器量があると認める以上、選んだ方にも責任があるという意味だ。だからこそ真の代表なのである。 
 デモクラシー政治は「待ち」ではない。「なる」のではなく、「する」のであり、「安定」が第一ではなく、改善のために理想に向かう「創造性」と「変化」の試行錯誤である。そしてそのための「連帯」である。
 
 しかし現実にはそれはなかなか難しい。自由で平等な社会とは言うは易し、実現はちょっと考えただけでも難しい。デモクラシーは果てしない「理想」なのだ。だからこそそれは「チャレンジ」であり、「勇気」が必要なのだ。
 きれいごとばかりのように見えるが、そうした政治の大義を失ってはデモクラシーの道は開けていかない。ここでいう大義とは皆が共有する普遍的価値・目標のための論争だ。目先の勝利に焦点があたった技術的な戦術論が先行してはならない。日本社会とデモクラシーの閉塞感の大元にある真実だ。
争点は「党利党略選挙」の是非
 今回の選挙は「政権交代選挙」と野党は主張する。選挙区の野党候補の一本化も難しい状況では大義がなくとも与党に勝機は十分にある。それが前提であってはならない。
 国民もそれを傍観するだけであってはならない。選挙をめぐるデモクラシーの大義を明確にすること、それは個別の政策の成否や微妙な違いを争うよりも、重要だ。問われるべきは党利党略選挙の成否だ。
 合法的ではあっても、こうした形の解散総選挙そのものの提案が、国民の信頼を基礎にした政治を目指した姿ではないことは明白だ。むしろ安定志向の国民心理に胡坐をかいた政治スタンスでしかないようにも見える。自民党の総裁選挙の結果はその縮図でもあった。
 有権者全体が共有できる論点、つまり争点の普遍化は、今回は「デモクラシーの中の党利党略を問いなおす」ということではないか。この選挙で試されているのは政治の世界であると同時に我々国民一人ひとりのデモクラシー意識でもある。
渡邊啓貴