日本被団協のノーベル平和賞決定で改めて注目されているのが、次の世代に、被爆の体験を受け継いでいくかです。広島の被爆者で、長年サンデーモーニングのご意見番を務めた張本勲さん(84)が、その思いを語ってくれました。
■張本さんの家は爆心地からわずか2キロあまり 母の洋服は真っ赤に…
「悲劇から力強い運動を築き上げた」
野球評論家 張本勲さん(84)
「ほっとしましたね。感謝してますよ。だけど、もう少し早くもらいたかったですね。亡くなった先人たちにも聞かせてやりたかったです」
張本さんは1940年、広島市生まれ。母親は女手一つで4人の子どもを育てていました。そして、張本さんが5歳のとき…
野球評論家 張本勲さん(84)
「友達と遊ぶために(家を)出ようとした。ばあっと光ってドン、いわゆるピカドン。『なんかな?』と思ったら、お袋が(私と姉に)被さって私たちを助けてくれた。白い洋服でしたから、真っ赤に…。ガラスの破片とかが刺さって、血がにじんでいた」
自宅の玄関先で浴びた閃光。張本さんの家は爆心地からわずか2キロあまりの場所でしたが、間に山があったことが幸いしたといいます。それでも、外に出た張本さんが見たものは…
野球評論家 張本勲さん(84)
「大きな声で叫ぶ人。苦しいから、熱い、痛いってね。それで私らの前を走って行く人。近くにドブ川があったんですよ。熱いからそこへ飛び込むんですね。みんな亡くなるんですよ」
このとき、勤労奉仕に出ていた6歳上の姉・点子さんが犠牲になったのです。
■「8月6日を消してくれ」と願っていた張本さんに届いた“1通の手紙”
野球評論家 張本勲さん(84)
そんな張本さんに、大きな転機が訪れます。60代のころ、張本さんは新聞社に頼まれ、原爆についての記事を寄せました。すると、小学生の女の子から“1通の手紙”が届いたのです。
野球評論家 張本勲さん(84)
「苦しい悲惨な思いが浮かぶから、『8月6日を消してくれ』と新聞に書いたことがある。小学校の女の子が手紙をくれまして、『逆でしょう、8月6日はなくしちゃだめですよ』『終生忘れないように』と言われて、はっとしました」
この小学生の言葉に背中を押される形で、張本さんは2014年、つらくて足を踏み入れることができなかった原爆資料館を訪れます。
野球評論家 張本勲さん(2014年)
「(展示写真を見ながら)姉さんを思い出す、このケロイドを見ると…」
張本さんの胸に蘇ったのは、亡くなったお姉さんのことでした。
野球評論家 張本勲さん(84)
「一番好きだった姉さんのね、死ぬ姿を見てるから。全身焼けただれてね。お袋はほんとに苦しかった。よく耐えたと思いますよ。自分の愛娘が一晩…。『おかあちゃん痛いよ熱いよ苦しいよ』と言いながら看取ったんですから、いかにおふくろが苦しかったか。子どもの頃は分からなかったけど、大人になって初めてお袋の苦しさ、原爆の悲惨さをかみしめましたよ」
日本被団協の代表委員の隣では、高校生平和大使がその様子を見守っていました。それを5年前務めていた長崎出身の中村涼香さん(24)は、今は核廃絶を目指す若者の団体・KNOW NUKES TOKYOの代表となっています。
中村涼香さん
彼らはAR(=拡張現実)の技術を使って、渋谷の交差点でスマホをかざすと、キノコ雲が現れるというアプリを作りました。
核の脅威を可視化して、若者世代に関心をもってもらうことで、被爆の記憶を継承するきっかけになってほしいと語ります。
KNOW NUKES TOKYO 中村涼香さん(24)
「今が最後の被爆者の方々と直接お話できるタイミングで、自分たちがその役割をどうやって代わりに担っていけるのか、その責任をすごい感じている」
2025年には被爆80年を迎えようとしている今、張本さんの思いとは。
野球評論家 張本勲さん(84)
「悲惨な姿、光景、人間、物…自分の目で見てるし、体験したから。人間が人間を滅ぼすようなことが絶対あってはならないことを、100年、1000年先でも、人間が生きている間は語り伝えてもらいたい」
張本勲氏
同番組の名物コーナ「週刊 御意見番」で2021年末まで御意見番としていた張本氏。番組司会の膳場貴子アナウンサーがインタビューし、「この受賞決定を受け、これまで自らの被爆体験について多くを語ってこなかった張本さんが、重い口を開いてくれました」と紹介した。
張本氏は受賞について「ホッとしましたね。感謝してますよ。だけども、もう少し早くもらいたかったですね。亡くなった先人達にも聞かせてやりたかったです」と喜びつつも、複雑な思いを語った。
1940年に広島市で生まれた張本氏は5歳の時に自宅で被爆。「友達と遊ぶために(家を)出ようとしたんですね。ばあっと光って、どん。いわゆるピカドン。『何かな?』と思ったら、お袋が(私と姉に)かぶさって私たちを助けてくれた。白い服でしたから真っ赤にね、ガラスの破片とかが刺さって血がにじんでた」とその瞬間を振り返った。
自宅は爆心地から2キロ余りの場所にあったことが幸いしたが、勤労奉仕に出ていた6歳上の長姉が亡くなったといい、苦しみながら亡くなった様子を涙ながらに語った。その後、被爆したことで差別を受け、自らの体験を口にしなくなったという。
張本氏は60代になって、自らの体験を新聞に寄稿。これ以上苦しい思いをしたくないとの気持ちから「(原爆投下の)8月6日を消してくれ」と書いた。これを読んだ小学生の女の子からの手紙をもらい、「『逆でしょう。8月6日はなくしちゃだめですよ。終生忘れないように』と言われて、ハッとしました」と目の覚める思いになったと述懐。「人間が人間を滅ぼすようなことが絶対あってはならないことを、100年はおろか1000年でも人間が生きている間は語り伝えてもらいたい」と語り継ぐ大切さを説いていた。