「親離れができていない」「たくさん助けたけど一方通行」 石破首相の「決定的な欠陥」を恩人らが指摘(2024年10月9日『デイリー新潮』)

「恐ろしく忙しい」
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石破茂新首相
「5度目の正直」でついに自民党総裁選に勝利し、頂点まで上り詰めた石破茂新首相(67)。鳥取県知事の息子として幼少期を過ごし、田中角栄元首相の薫陶を受けて政界入り。永田町で嫌われ、立ち上げた派閥が瓦解しても挑戦を諦めなかった「政治家・石破茂」の全て。【前後編の前編→後編
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 後世に残る激闘を制して自民党総裁の座を勝ち取り、今月1日召集の臨時国会で第102代総理大臣に選出された石破茂氏。総裁選が終わった翌日、
「恐ろしく忙しい」
 と言いながらもご本人が振り返ってくれた。
「これまでの総裁選とは支えてくれる人たちの熱量が違ったかな。今までは、安倍(晋三元首相)さんとやった時も、菅(義偉元首相)さんや岸田(文雄前首相)さんとやった時も、『違う選択肢も自民党にありますよ』と示す意味があった。今度は、選択肢を示すという選挙じゃなかったからな。『最後の戦い』だからね」
 1回目の投票では高市早苗前経済安保相に次ぐ2位となったが、決選投票で逆転して勝利した。
「今までとは全く逆のパターンでね。議員票でひっくり返すというのは初めてやったから。いろんな人がいろんなことを考えたんだろう」(同)
「オヤジが喜んでいるだろうなぁ」と涙
 今回、石破氏の陣営には彼のことを古くから知る人物も入っていた。田中角栄元首相の秘書を長く務めた朝賀昭氏だ。
「今回の選挙でもずいぶん助けてもらった朝賀先輩は『オヤジが喜んでいるだろうなぁ』と言って泣いていた。角栄先生には俺、2回言われたからね、一対一で。『お前な、大臣1回は努力すればなれる。大臣2回はすんごく努力すればなれる。党三役はものすごーく努力すればなれる。でも総理は努力だけじゃなれんぞ』と」(同)
 朝賀氏に聞くと、
「総裁選投開票日の夜中に丁寧なお礼の電話をいただきました。“お世話になりました”と石破が言って、私が“これでオヤジに報告できるね”と返したら、彼は“本来はお参りしてご報告をしたいんですが、今すぐというわけにはいかないので、心の中でオヤジに手を合わせて、おかげさまで頂上まで上り詰めることができました、と伝えました”と言っていました」
 石破氏ご本人は、
角栄先生なかりせば今の自分はない」
 と言うが、実際、石破氏は田中元首相の導きによって政界入りしている。
「日本で起こることは全てこの目白で決めるんだ」
 石破氏の父親、鳥取県知事や自治大臣を務めた石破二朗氏は“田中のためなら死んでもいい”というほど田中元首相に心酔していた。いまわの際(きわ)の二朗氏から「葬儀委員長をやってくれ」と頼まれた田中元首相は彼の死後、東京で盛大な「田中派葬」を催し、
「石破君、きみとの約束を俺は今日、こうして果たしているぞ」
 葬儀委員長として泣きながら弔辞を読んだという。
 この葬儀のお礼を言うために東京・目白の角栄邸を訪ねた石破氏は、父の跡を継いで政治家になるよう田中元首相に言われる。逡巡する石破氏に対し、
「日本で起こることは全てこの目白で決めるんだ、分かったか!」
 と迫った田中元首相に押し切られる形で政界入りすることになったのだ。
“辻立ち5万回、個別訪問3万回”の教え
 石破氏は1957年2月4日、東京・千代田区で生まれている。翌58年、父親が鳥取県知事に就任したため鳥取県に転居し、鳥取大学附属小学校、中学校に通った後、慶應義塾高校から慶應義塾大学法学部に進み、当時の三井銀行に就職。田中元首相の勧めに従って同行を退職、田中派木曜クラブ)の事務員になったのは石破氏が26歳の時のことだった。
「当時の彼は、銀行員上がりの真面目な青年、そのままの印象です。トラブルも全くない、優等生でした」
 朝賀氏がそう述懐する。
田中派はどんどん選挙の手伝いに行かせる事務所だったから、石破を含めた皆が田中流選挙を学んだ。オヤジは“辻立ち5万回、個別訪問3万回”とか皆に言っていて、石破もそのオヤジの言葉は今でも覚えていると思います」
 大学の同級生だった佳子さんと結婚したのは田中派の事務員になった約6カ月後の83年9月。衆議院選挙に初出馬、初当選を果たしたのは86年7月、中曽根康弘政権下で行われた衆参同日選挙だった。
「学校の先生の方が合ってるんじゃないかってくらい真面目」
「石破くんとは当選1回目から俺が落選して辞めるまでずっと一緒だよ。俺が初当選した時は50歳で、当時最年少で当選した彼とは20歳以上離れていた」
 と話すのは、笹川堯(たかし)元科学技術政策担当相(89)。
「彼は田中派に入りたかったんだけど、鳥取県には田中派の平林鴻三さんがいた。中選挙区制の当時、同じ選挙区に同派閥の人間が二人というわけにいかず、彼は渡辺美智雄先生のところに預けられた。彼とは議員会館の部屋が隣同士だったので、渡辺先生からは“隣にしたから面倒みてやってくれ”と言われていました」
 出会った頃の印象は、
「とにかくクソ真面目。学校の先生の方が合ってるんじゃないかってくらい真面目だった。まだ彼が若かった時、彼の選挙の応援に行ったら、あいつ山の中での演説で北朝鮮や韓国とか38度線の話を熱く語っていてね。“こんなところで38度線の話なんかしても票にならないぞ”と忠告したことがある。ちょっとズレているんだけど、それくらいクソ真面目で一生懸命なんだね」(同)
「あいつが俺の選挙区で応援したことは一度もない」
 そんな石破氏に「オタク」の一面があることはよく知られている。
「彼は電車が好きだから鳥取から東京まで飛行機じゃなくわざわざ電車に乗って帰るんだ。俺も鳥取まで選挙の応援に行った帰りに一緒に夜行列車に乗りましたよ。ゴトゴト揺れるもんだから俺はあんまり眠れず、“あいつはよく寝られるな”と思ったよ」
 そう振り返る笹川氏が不思議に思っていたことがある。それは、
「俺はあいつの選挙をかなり応援したんだけど、あいつが俺の選挙区で応援したことは一度もないんだ。それを指摘すると、“先生、来いって言わないじゃないですか”と言うんだ。つまり、“来い”って言わないと来ない。たくさん助けたけど一方通行。真面目というか何というか……」
 90年2月、2回目の衆院選鳥取県全県区でトップ当選を果たした石破氏。93年6月には宮澤喜一内閣不信任決議案に与党の一員でありながら賛成票を投じ、後に自民党を離党。小沢一郎氏や羽田孜氏が率いる新生党に合流した。
「親離れができていないということ」
 新生党新進党で共に活動した平野貞夫参院議員が述懐する。
「彼は私より20歳くらい下でしたが、新生党時代は小沢・羽田ラインの政策理念などについて私を質問攻めにしてきましたよ。よく彼から新橋の小料理屋に呼び出されて、二人で飲み食いしながら、政治改革のこと、これからの日本のことをもう連日のように話しましたね。私は小沢さんのブレーンとして知られていましたから、何とか私から話を引っ張り出そうとしていました」
 石破氏が平野氏に問うてきたのは政策の話ばかりではなかった。印象に残っているのは、父・二朗氏について語る姿だという。
「私も彼の親父さんのことを知っていますが、頭が良いだけではなく、人間が立派な人だった。彼は親父さんが素晴らしい人だってことを私に話し、彼自身の立ち位置をどうするかということで悩んでいた。その時に私が感じたのは、彼は父親へのコンプレックスを持っているな、ということ。つまり、親離れができていないということです」
 それこそが石破氏の「欠陥」なのではないか――そう考えたという。
「質的な問題で決断ができない」
「親の偉大さの中にいるだけでは自立した人間にはなれません。親の良いところ、悪いところを峻別していくことで、子供は親から離れるんです。親離れができなければ、指導者として量的な判断はできても質的な問題で決断ができないんです」
 と、平野氏は言う。
「彼は勉強熱心な読書家でさまざまな知識を持っていて、それを整理する能力もあるけれど、自分が責任者になった時に、これをやる、これはやらない、と決められない。だからこそ彼が立ち上げた派閥もうまくいかなかったのでしょう」
 後編【「元々、政治家に向いていない」「中学時代に友達が離れていった過去」 元石破派が明かす、「石破首相に仲間ができない理由」】では、元石破派の人物らにインタビュー。石破首相になかなか仲間ができない真の理由について報じている。
 
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週刊新潮」2024年10月10日号 掲載
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