新政権を発足させた
石破茂首相は10月4日に臨んだ
所信表明演説で、かつて師事した「ミッチー」こと
渡辺美智雄元副総理(1923~1995年)の言葉を引用し、政治家の仕事とは「勇気と真心をもって真実を語る」ことだと訴えた。だが首相は、
自民党総裁選の期間中に示していた国会審議重視の方針を撤回。野党が要求する
予算委員会での論戦を行わないまま、
臨時国会最終日の10月9日に
衆院を解散する方針だ。
渡辺美智雄氏の長男で、石破首相が初当選した
衆院選を美智雄氏の秘書として手伝った経験もある
渡辺喜美(よしみ)元
行政改革担当相(72)=2022年に政界引退=は、自身の
SNSで「今、ミッチーが生きていたら、『勇気と真心をもって真実を語れ、国会を解散する前にだ』と言うのではないか」と指摘する。
渡辺喜美氏に、このたびの首相の「変節」をどう見ているか、聞いた。(宮尾幹成)
「ミッチー語録」について語る渡辺喜美・元行政改革担当相=10月5日、東京都内で(七森祐也撮影)
【石破氏は、
自民党総裁選への立候補に当たって発表した政策集の冒頭に「勇気と真心をもって真実を語る、謙虚で、誠実で、温かく実行力のある
自民党をつくります」と明記。9月27日の総裁選決選投票前のスピーチでは「勇気と真心をもって真実を語る。そういう
自民党を、同志の皆さまとともに必ずつくる」と語った。10月4日の
所信表明演説でも
渡辺美智雄氏の名前を挙げ、この言葉を繰り返した】
◆30年前に「政党法」を創設しておくべきだった
―石破首相が語るべき「真実」とは何か。
「なぜ今回、石破さんが
復権したかと言えば、やはり『政治とカネ』(の問題で失墜した
自民党の信頼回復を期待されたから)だ。石破さん自身が(
中選挙区時代の)カネのかかる選挙を経験し、(1993年に)
小選挙区制実現のために
自民党を離党している。表向きは
河野洋平総裁が
憲法改正論議を凍結する方針だったことが理由だと言っているが、これは(この年の総裁選で
河野氏に敗れた)ミッチーにかなり配慮した理屈づけで、本音は
小選挙区だった。だが、当時の国会が成立させた政治改革関連法は極めて不十分だった」
「ミッチー語録に『派閥の前に党があり、党の前に国家・国民がある』というのがある。『四十日抗争』で所属する中曽根派を除名された時に出た言葉で、
憲法43条の『国会議員は全国民の代表』という理念そのものだ」
「30年前の政治改革では、
政党助成金制度と(
衆院の)
小選挙区制を導入したが、全国民の代表である国会議員を政党ががんじ絡めにする矛盾・相克は一体何なのかという根本的な議論をすっ飛ばしてしまった。本来は『政党法』を創設して、『国会議員は全国民の代表』という原則は維持しつつ、政党のガバナンス(統治)を規定するべきだった。そのツケが派閥という
中選挙区の遺物として残り、裏金事件が起きた」
「そういう『真実』を石破さんは語らないといけないのに、語る前に
衆院解散してしまおうというのは、石破さんの党内基盤がいかに弱いかということの裏返しだ」
渡辺美智雄(わたなべ・みちお) 1923年生まれ。行商人や税理士などとして働いた後、栃木県議を経て1963~1995年に衆院議員(連続11期)。厚相、農林水産相、蔵相、通商産業相、外相兼副総理や自民党政調会長を歴任した。
1973年、田中角栄首相による日中国交正常化に伴う中華民国(台湾)との国交断絶に反対して結成された「青嵐会」の旗揚げに中川一郎氏、石原慎太郎氏らとともに参加した。中曽根派に所属したが、1979年の衆院選後の党内抗争(「四十日抗争」)で派閥と異なる行動を取ったことで除名され、派閥横断の政策集団「温知会」を結成。温知会には若手時代の石破茂首相も所属した。リクルート事件で中曽根康弘氏が自民党を離党したのを受け、中曽根派を引き継いだ(渡辺派)。
1980年代には「安竹宮」(安倍晋太郎氏、竹下登氏、宮沢喜一氏)と並ぶ「ニューリーダー」の1人と目されるようになり、「ミッチー」の愛称で親しまれた。自民党総裁選に2回立候補したが、1991年は宮沢氏に、1993年は河野洋平氏に敗北。1994年4月、非自民連立政権の細川護熙内閣が退陣するに当たって小沢一郎氏から後継首相の打診を受けたものの、連立与党内の合意が得られるか不透明な状況の中、最終的には自民党離党を断念し、幻に終わった。1995年9月死去。
行政改革担当相やみんなの党代表を務めた渡辺喜美氏は長男。孫(喜美氏の甥)の渡辺美知太郎氏は、参院議員を経て栃木県那須塩原市長を務めている。
―石破政権では、実権を握っているのは
菅義偉副総裁や
森山裕幹事長だという見方も強い。
「中曽根内閣の時がそうだった。角さん(
田中角栄元首相)に完全に牛耳られて、『田中曽根内閣』とも言われた。長期政権になったのには、角さんが
脳梗塞で倒れるとか、
経世会(
田中派)が分裂するとか、いろんな幸運もあったのだが、中曽根さんは自分が総理になったら何をしたいということを毎日毎日、大学ノートに膨大に書き続けていた。そういうバックボーンがあったのが一番大きい」
「石破さんも党内基盤が弱いが、何をやりたいというのはあるはずだ。権力から遠ざかって長く、政策がバージョンアップされていないとも言われているが、『原理原則』は変わっていないと思う。石破さんにとって原点は何なのか、常に思い返してみることは大事なんじゃないか」
【
渡辺美智雄氏の「政治の8割は政策や理念、原理原則で考え、好きだ、嫌いだ、コンチクショーの感情は2割にとどめるべきだ」という言葉も知られている】
◆石破さんはリアリストの「風見鶏」になればいい
「どっちにしても『豹変総理』と言われてしまっているのだから、だったらもう中曽根さんみたいな徹底したリアリストの『風見鶏』(政界遊泳術の巧みさから付いた中曽根氏のあだ名)になればいいというのが私のアド
バイスだ。原理原則、原点を忘れなければ、もしかしたら中曽根さんみたいに幸運に恵まれて、長期政権にもなれるかもしれない」
―石破政権で「角さん」に当たるのは菅氏か。
「違う。私の見るところ、菅さんは(総裁選で)
小泉進次郎さんがダメな時は石破さんで行こうという二枚腰だった。安倍(晋三)さんと(首相と
官房長官として)8年も一緒にいたのに、前回(の総裁選)は安倍さんの嫌いな
河野太郎さんをやっているし、安倍さんは石破さんのことはもっと嫌いだった。こういう融通無碍が菅流で、今回も遺憾なく発揮されたが、角さんのような『闇将軍』という感じでは全くない」
「森山さんが影響力を持っているというが、小さな旧派閥の親分で、やはり闇将軍とは言い難い。突如
キングメーカーになったのは、プチ・
キングメーカーという感じではあるが、岸田(文雄前首相)さんだろう。(
高市早苗氏を師事した)麻生(太郎)さんが勝手にずっこけてくれたという幸運もあった」
【総裁選の決選投票では、旧岸田派が石破氏支持に回り、石破氏の勝利を決定付けたとされる】
「こういうガラス細工の均衡の上に石破政権は乗っかっているので、今は風見鶏でぐるぐるぐるぐる回るしか方法はないんだろうと思う。中曽根さんのリアリズムと原理原則。これが大事だ」
「
みんなの党が、結果として人材供給源となったということは言えると思う。私が
参議院にいた頃(2016~2022年)、数えてみたら、
みんなの党出身の国会議員は十数人いた。東京都議だった音喜多駿さん(
日本維新の会)や塩村あやかさん(
立憲民主党)も
参院議員になった。
みんなの党が自民から立憲に至るまで人材供給をした結果、こんな感じにばらけたというのは感慨深く思った」
「ミッチーは『政治家を志すには人それぞれ思いがあるはずが、それが君たちの原点なんだ、だから常に原点を忘れるな、常に困ったときには原点を振り返る、その中に答えは書いてあるんだ』というようなことをよく言っていた。同じことを私は、あちこちにばらけた元
みんなの党の人たちに申し上げたい」
みんなの党 麻生内閣による衆院解散後の2009年8月、自民党を離党した渡辺喜美氏と、無所属だった江田憲司氏のほか、自民党や民主党を離党した3人の計5人で発足。小さな政府の実現や官僚主導体制からの脱却などを掲げた。衆参両院の所属国会議員は最盛期には36人まで増え、「第三極」として一定の存在感を示した。
2013年7月の参院選後、第2次安倍政権への接近を図る渡辺代表と、野党再編を志向する江田幹事長の確執が生じ、江田派が集団離党して「結いの党」を結成した。
2014年4月に政治資金問題で代表を辞任した渡辺氏の後任に浅尾慶一郎氏が就くと、安倍政権との連携を重視する渡辺派と、自民党と距離を置く新執行部の路線対立が表面化。日本維新の会の一部と結いの党の合流新党「維新の党」に参加する動きも広まった。
2014年11月に入り、民主党への合流を模索する浅尾代表らへの批判が噴出し、党内の亀裂は決定的に。党の求心力を維持するのが困難になり、衆院解散の2日前、11月19日の両院議員総会で解党を決議した。かつての所属国会議員は現在、自民党や立憲民主党などで活動する。
党名はサザンオールスターズの人気曲「みんなのうた」に因む。英語名はYour Partyだった。
―振り返ってみて、
みんなの党の「失敗」の原因は何だったと思うか。
「私は政策実現にこだわっていた。しかし、党のメンバーは大半が次の選挙でどうやったら受かるかを考えていた。そのギャップが最大の要因だろう」
「2014年4月に消費税率8%への引き上げが控えていた。その頃、
特定秘密保護法案というものが出てきた。
みんなの党は『日本版
NSC(
国家安全保障会議)』の創設やそのための機密保護強化を
アジェンダ(政策課題)に掲げており、官邸筋から法案の修正案を作ってほしいという要請が来たので、急遽、党内手続きを尽くして作った。第1次
安倍内閣のメンバーである安倍さん、菅さん、
塩崎恭久さんと私で作っていた『
アビーロードの会』という懇親会で、修正案を安倍さんと菅さんに渡すと、次の日から修正協議をやろうという話になった。これは面白い展開になるなと思った」
「2013年7月の
参院選で
自民党は
参院の
単独過半数を割り、
公明党の20
議席で補っていた。一方、
みんなの党は18
議席まで行き、影の
キャスチングボートを握っていた。私は内々、その
レバレッジ(てこの原理)を利かせて
増税を延期させることを狙ったが、江田さんたちが次の選挙で勝つには維新と一緒になりたいと反旗を翻し、分裂することになった。私のもくろみは失敗に終わった。江田さんたちも浅尾さんたちも、どうやったら次の選挙で生き残るかを考えていた」
―代表として、所属議員を次の選挙で当選させることへの配慮が足りなかったのではないか。
「全責任を私1人で負って作った政党だから、壊れたのも全ては私の責任だと思っている」
「当時、私が使っていた比喩は、
みんなの党は触媒であると。触媒というのは、自分自身は変わらないが、周りのものに化学変化を及ぼしていくというものだ」
「総裁選で安倍さんは、地方票トップだった
石破茂さんを決選投票で破った。その頃、維新が次の
衆院選で全選挙区に候補者を立てるのではないかという話があり、野党
自民党に『安倍さんが
自民党総裁に返り咲けば、維新とうまくやってくれるんじゃないか』という議員心理が働いて安倍さんが大逆転した、というのが私の説だ。その証拠に、安倍さんと菅さんは毎年クリスマスに橋下さんと
松井一郎さんを東京に呼んで会食していた。あれは間違いなく、維新のおかげで自分は勝利したというお礼を込めて会っていた。『風が吹けば桶屋がもうかる』だと言われてしまうかもしれないが、明らかに
みんなの党の存在が触媒として周りに化学変化を起こした」
◆みんなの党がなければ第2次安倍政権も誕生しなかった
「第2次以降の
安倍内閣は、
みんなの党が唱えていたリフレ政策(過度な物価上昇を避けながら
金利の引き下げや
財政出動によって景気を回復させようとする政策)を採用した。第1次内閣の頃はリフレ派でも何でもなかった安倍さんが宗旨変えしたのには、『
アビーロードの会』を通じた
みんなの党の影響があったのかなと思っている」
「ついでに言うと、
アベノミクス(安倍政権の経済政策)がうまくいかなかったのは、野党時代に
谷垣禎一前総裁、
民主党の
野田佳彦首相という(
財政再建派の)直列惑星が並んでしまって、
自民党が
増税に賛成したために、最初からタガがはめられていたからだ。(
安倍氏の死後に出版された)『
安倍晋三回顧録』にも書いてあるが、安倍さんがその
増税を
ちゃぶ台返ししようとしても、
自民党の中でクーデターが起きるのでできなかった。私としては、リフレ政策を完全に実現するには
増税をストップさせないとダメだという思いだったが、先ほどの経緯(江田派の分裂)で失敗した」
「
みんなの党の5年間が、まるっきり無意味だったとは思っていない。日本の現代政治史に一石も二石も投じたと、私は今でも思っている」
―極論を言えば、渡辺さんの動きがなければ第2次安倍政権は誕生していなかったと。
「そう思う。(総裁選の)逆転劇がそもそも起きなかった」
―渡辺さんは安倍首相とのつながりもあったのだから、みんなの党の解党後、自民党に復党することもできたのではないか。
「全く考えなかった。ミッチーが亡くなる直前に読んでいた本が、当時新刊で出たばかりの
野口悠紀雄さんの『
1940年体制』だった。戦争中に確立した
統制経済が戦後も連続しているという内容で、そもそも
1940年体制のようなものを体現している
自民党は、私は最初から嫌だったし、戻るという選択肢は全くなかった。安倍さんからも復党という話はなかったし、来ても多分、断っていたと思う」