世界で最も長く拘束された死刑囚 時の止まった半世紀(2024年9月22日『日本経済新聞)

 

 

1966年に静岡県清水市(現静岡市)で一家4人を殺害したとして死刑が確定した袴田巌さん(88)のやり直しの裁判の判決が、26日に言い渡される。半世紀にわたった拘束の影響で、釈放された今も意思疎通は難しい。無罪の公算が大きいとされるが、事件から58年が過ぎても「世界で最も長く収監された死刑囚」の時は止まったままだ。

「犯人ではありません」

袴田さんは姉のひで子さん(91)とともに浜松市内の自宅で暮らしている。押し入れには逮捕直後から獄中でつづってきた大量の手紙が年代別に整理され、保管してある。

「神さま。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます」。地裁で公判中の67年、母に宛てた文面に一貫して無罪を訴え続けた当時の心情が映る。

袴田さんが1967年に母に宛てて書いた手紙
 
裁判が始まると内容を欠かさず報告した。「裁判所には間もなくわかってもらえるでしょう」「結果は間違いなく僕に有利にでます」。端正な文字ににじむのは裁判所に寄せた信頼と希望。ところがその期待は、にべもなく裏切られる。

「御母サン 私ノコトデ無用ナ心配ナドシナイヨウ 早ク 全快シテ下サイ」

68年9月、静岡地裁は死刑を言い渡した。間もなく袴田さんは病床に伏す母に手紙を書いている。ショックの表れだろうか、それまでとは似ても似つかぬ、定規で引いたかのような直線だけで書かれた文字。その後の手紙には「意外ナ判決結果」とも吐露した。

1967年に袴田さんが母に宛てた手紙㊨と68年9月の死刑判決後に書いた手紙
 

死刑判決は80年12月に最高裁で確定した。裁判のやり直しを求めてすぐに再審を申し立てたが、最初の請求は27年もの歳月をかけながら「棄却」で決着。この間、袴田さんの手紙はだんだんと支離滅裂になり、親族や弁護士らの面会に応じることもなくなっていく。

年齢は「23歳」

2014年3月、2度目の請求で静岡地裁が再審開始を決め、袴田さんは釈放された。一審判決から釈放までの「45年」はギネスの認定記録。異例の長期拘束は、妄想などを生じる「拘禁症状」を引き起こしていた。

袴田さんは年をとらない。年齢を聞けば「23歳」と答える。打ち込んでいたボクシングでプロになった年齢で「巌にとって最も華やかなりしころ」(ひで子さん)。そのころから時間は止まったままだ。

定位置は自室の椅子で、起きている間は黙って座っていることが多い。テレビをつけてニコニコしていることもあるが、よくみると目はテレビを見ていない。「頭の中にいる誰かと話して、楽しそうにしているんだと思う」。ひで子さんが説明する。

 
そんな袴田さんを尻目に、再審請求審はさらに曲折をたどった。東京高裁は18年、一転して再審は認められないと判断。20年に最高裁がその決定を破棄し、高裁でもう一度検討するよう求めた。23年に高裁が再び出した再審開始決定を検察側が受け入れ、ようやくやり直し裁判のスタートラインに立った。

血痕「赤み」が分水嶺

 
それでもなお検察側は袴田さんの有罪にこだわった。最大の争点は、事件から約1年2カ月後の公判中に現場近くの工場のみそタンクから見つかった「5点の衣類」の証拠評価だ。付着していた血痕に赤みが残ることが科学的にあり得るのかどうかが、有罪か無罪かの分水嶺になっている。
 

約7カ月間で15回にわたった審理に袴田さんは一度も姿を見せなかった。心神喪失を理由に裁判所が出廷を免除したためだ。公判は代わりにひで子さんがすべて出席した。

今年5月の最終意見陳述で、ひで子さんは「無実」や「無罪」といった言葉を一度も使わなかった。そんな「分かりきっていること」よりも伝えたいことがあった。

証言台で声を震わせ、訴えた。「58年、たたかってきました。余命幾ばくもない人生かと思いますが、弟、巌を人間らしく過ごさせてください」。判決は26日午後2時、静岡地裁で言い渡される。

(嶋崎雄太、高橋彩