秋篠宮家の長男、悠仁さまが9月6日、18歳の成年を迎えた。高校3年生の悠仁さまは、卒業まで宮中行事に参加する予定はないものの、8月には京都で開催された国際昆虫学会議に出席された。トンボの研究成果が論文として発表され、「研究者」としての学びを深めている悠仁さまのご様子は、生物学者として知られた昭和天皇の少年時代にも重なる。
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ちょっと力を入れただけで傷んでしまうほど薄いトンボの羽を、ちいさな悠仁さまは指の腹でそっとつまみ、満足そうな表情を浮かべた。
当時、皇室の事情に詳しい人物は、このときの様子を映像で見て、
と、感心した様子で話していた。
「夏ごろからでしょうか、庭にいる小さな虫,バッタやカマキリなどを見つけて、上手に捕まえては手で持ったり、袖に乗せたりして、よく観察しておりました」
お茶の水女子大学付属小の1年生だった2013年には、皇居や赤坂御用地などで採集したトンボやセミ、アゲハチョウの標本を「夏の思い出」と題して出品。標本には手書きで、「日本のヤンマ」「日本のアゲハチョウ」「日本のセミ 日本には35種のセミがいます」などと説明が添えられてあり、標本の下には、「ウチワヤンマ」「Sinictinogomphus clavatus」というように和名と学名で書かれたラベルもあった。
悠仁さまは、チョウの羽の鱗粉(りんぷん)が落ちないよう、丁寧に作業していたという。
■「三つ子の魂百まで」と昭和天皇
生物学者として知られた昭和天皇も、幼少期に「昆虫と植物」と表題をつけた昆虫標本を作製している。東京都立川市にある「昭和天皇記念館」には、「採集者 裕仁」と自筆のラベルが添えられた実物が展示されている。
「樹皮の周りにセミを配したり、植物の花に何種類ものチョウがとまっていたり、周囲を飛んでいたりしているように貼付された標本。専門家の解説によれば、樹液や花の蜜、葉や茎の液汁を吸って栄養をとるチョウやカメムシ、セミといった自然界の食物連鎖の一端が巧みに表現されているようです」
海洋生物や植物の分類学者としても知られた昭和天皇は、公務の合間に皇居・吹上御苑に開設された「生物学御研究所」や御用邸で、変形菌、クラゲの仲間であるヒドロ虫類をはじめとする海洋生物、皇居・那須・須崎の植物などの研究をライフワークとして続けた。その業績から、「分類学の父」と言われるカール・リンネの名前を冠したロンドン・リンネ協会の名誉会員となり、ロンドン王立協会の会員にも選ばれている。
「昭和天皇は自身の記者会見で、生物学研究は小さいときから『三つ子の魂百まで』の結果とおっしゃられています。実際、『昭和天皇実録』には、ご幼少の頃より箱根や伊香保などでは昆虫採集を、沼津や葉山の海岸では貝殻ひろいをさかんに行われ、そうして集められた昆虫や貝の名前を図鑑で調べ、分類・整理して標本作りを熱心にされていたことが書かれています」(梶田さん)
■「生物相」に着目、という共通点
悠仁さまがお住まいの赤坂御用地を歩いて集めたスダジイ、ミズナラ、アベマキといった17種類のドングリ。これを見つけた場所が分かるように、御用地を再現した地図の上に、色分けした粘土のドングリを置いた分布図を作ったのだ。
「こちらのドングリの分布図もそうですし、共同執筆で昨年発表された『赤坂御用地のトンボ相』の学術論文もそうですが、採取した動植物の生態を再現したり、特定のエリアの生物相に着目されたりしている点では、昭和天皇のご研究と通じるものがあるように感じます」
■なぜ生物学が「帝王学」なのか
生物学を本格的に研究し始めた皇族は、昭和天皇だったと見られている。
なぜ、生物学が「帝王学」と結びつくのか。
梶田さんによると、欧州では生物学や博物学は王侯貴族のコレクションから始まり、自らも研究者となる人もありました。国民も生物学に広い教養を持つロイヤルを尊敬してきた背景があるという。
「そうした時代背景もあり、教養の範囲を超えて自らこつこつと動植物を採集し、研究を重ねてこられた昭和天皇の存在は、ロイヤルのなかでもある種、異例でした。だからこそ、その業績が認められ、英国など学会の会員として推挙されたのでしょう」
「皇族方は、職業を自由に選ぶことはできません。だからこそ、ライフワークとして続ける研究者としての顔を持つことは、支えになっておられるのでしょう。一般の研究者のように成果や業績が昇進や研究費にシビアに影響する、といったお立場ではないかもしれません。しかし、そうしたことが逆に地道なフィールドワークにつながっているのかもしれませんね」
いまの関心は学術論文をまとめた「トンボの研究」にあるようだが、稲から昆虫まで、幅広い分野に興味を持っている悠仁さま。これから、どのような世界を選び、進んでいくのだろうか。
(AERA dot.編集部・永井貴子)