激戦の島パラオから生還 亡き父の戦争体験を後世へ 終戦79年 仙台・大冨さん夫妻が記録(2024年8月13日『河北新報』)

 仙台市若林区の大冨晴彦さん(70)は妻明子さん(72)と、太平洋戦争の激戦地、パラオから生還した元海軍技術士官の父、五一さんの戦争体験をまとめた。五一さんは生前、自らの体験を公にすることを拒んでいた。終戦79年を前に取材に応じた晴彦さんは「本当は過酷な戦争の実態を知ってほしかったのではないか」と推し量る。(写真映像部・上村千春)

五一さんのアルバムを見ながら語り合う晴彦さんと明子さん

戦場の実態を知ってほしい

 五一さんは旧仙台高等工業学校(現東北大)を卒業し、21歳で技術士官になった。1944年4月、パラオ諸島に配属され、約200人の工員を率い、道路や飛行場の建設に携わった。

 同年9月にはペリリュー島に米軍が上陸。日本兵約1万人が玉砕した「ペリリューの戦い」が始まった。約60キロ離れたパラオ本島に移動していた所属部隊も早朝から日没まで米軍の爆撃を受け続けた。

 補給路が断たれ、食糧は底を突く。食事はサツマイモのかゆが茶わん1杯程度。ジャングルを耕し、コウモリやネズミを食べて飢えをしのいだ。工員の4割が栄養失調で命を落とした。

 「せめて生きている間に乾パンを食べたい」。やせ細った18歳の部下に懇願され、非常食として取っておいた缶を開け、分け与えた。翌日、部下は亡くなっていた。

軍服姿の五一さん(1943年撮影)

 パラオに赴任した技術士官の同期4人のうち、生き残れたのは五一さんだけだった。捕虜となり、46年2月に仙台に帰還。東北地方建設局(現東北地方整備局)に勤めダムや河川の工事に携わった。2021年に100歳で亡くなった。

 米英を敵に回した戦争を「子どもと大人のけんか」と常々非難し、多くの命が奪われたことを悔やんでいた。「戦争はどんなことがあっても起こしてはならない。ばかなことだ」

 晴彦さんと明子さんは壮絶な体験を後世に残そうと、聞き書きしてA4判11ページにつづった。20年ほど前のことだ。五一さんは記録に残すことは許したものの、家族以外に伝えることは「死んだ仲間に申し訳ない」とかたくなに拒否した。

 2人にとって晩年の忘れられない姿がある。15年、ペリリュー島の闘いを描いたドキュメンタリー映画を一緒に劇場で見た時のこと。終幕後、急に立ち上がり、「私はここで戦って参りました」と大声を張り上げた。五一さんはそれっきり黙り込み家路に着いた。

 「自分の体験を皆に知ってほしかったのだと思う」。晴彦さんは胸の内をそう推測する。「青春を戦場で過ごした父のような苦しみを誰にもさせたくない」。父が願った不戦への思いを胸に刻む。