和歌山毒物カレー事件を検証し直すドキュメンタリー映画『マミー』。監督がメディアに求めるものとは(2024年8月13日『CINRA』)

CINRA
『マミー』

1998年7月に和歌山市で起きた和歌山毒物カレー事件。地域の夏祭りで提供されたカレーに混入された毒物により、それを食べた住民67人がヒ素中毒を発症。このうち4人が亡くなった毒物混入・無差別殺傷事件だ。この事件の犯人として近所に住んでいた主婦・林眞須美が逮捕され、2009年5月に最高裁判所で死刑が確定した。林死刑囚は現在も無罪を主張し、再審を求めている。

【画像】二村真弘監督

事件発生から26年後。この判決に異議を唱え、冤罪の可能性を観客に提示するドキュメンタリー映画『マミー』が公開された。監督を務めたのは、今回が映画初監督作品となる二村真弘。検証を続けるなかで監督が感じた報道やメディアへの違和感や冤罪を語ることの意義とは?

※本稿は、作品のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。

事件当時は「こんな悪いことをする人がいるのか」と思った
―もともと和歌山毒物カレー事件にはどのような印象を抱いていましたか?

二村:事件当時、僕は日本映画学校の学生でした。創設者である今村昌平さんの作品をいろいろと観ていたのですが、犯罪に関する映画が多かったことから僕も犯罪心理に興味を持ちまして。それで映画の題材になるかもと、当時も割と熱心に報道を追っていたんです。

保険金詐欺の果てに夫にヒ素を飲ませるなど「林眞須美の悪意」がメディアで報じられていくうちに「こんな悪いことをする人がいるのか」と考えるようになり、これは彼女が犯人で間違いないなと確信してからは、事件について積極的に追うことはありませんでした。

―その後、林眞須美さんの長男が2019年に出版した書籍トークイベントに行かれたとうかがいました。

二村:そのときは本を斜め読みしたうえで、林眞須美の長男はどんな人で、どのような話をするんだろう、という野次馬精神で見に行ったのが正直なところです。そのあとに長男のSNSをフォローして、しばらくしてから取材のために連絡を取り始めました。

―初監督映画となる本作で、和歌山毒物カレー事件という題材を扱った理由を教えてください。

二村:映画を撮りたくてこの題材を選んだというより、この題材を世に出すための媒体として一番効果があるものを考えた末に行き着いたのが映画だったんです。当初この事件を取材した映像は「digTV」というYouTubeチャンネルで配信していたんですが、僕自身、徐々に「これは冤罪の可能性が高い」と確信するようになりました。その段階でテレビ局やプロデューサーにこの企画を持ち込んだものの、「死刑判決が確定している事件で、冤罪の可能性を検証する番組を制作することは難しい」と難色を示されまして。

そんななかで知ったのは、ジャーナリストの伊藤詩織さんがご自身の性被害について書いた『Black Box』という著書です。出版直後、メディアはその本を扱うことを避けていたのかあまり注目されていませんでしたが、BBCが取り上げたことで逆輸入的に日本でも話題になっていって。

その経緯を見て、この事件も海外メディアに届けば広く伝えられるのではと思ったんです。それで「digTV」のときからずっと相談していた石川朋子プロデューサーと、海外の配信メディアや映画祭に10分くらいのトレーラーを持っていき、反応を見聞きしていくなかで「これは映画という選択肢しかない」と判断しました。

―海外からの反応は現段階で何かありましたか?

二村:まだ映画祭での正式上映はしておらず、完成形はまさにいま応募中(2024年8月時点)なので正確な反応はわかりません。ただトレーラーを観てもらった際には、「日本にはまだ死刑制度があるのか」と驚かれました。しかも眞須美さんが冤罪を訴えていて、その検証もされていないことに皆さん関心を寄せていましたね。

―『マミー』というタイトルにはどのような思いが込められているのでしょうか?

二村:長男が眞須美さんを「マミー」と呼んでいるんです。母親の呼び方って成長とともに「お母さん」「おかん」と変わっていくことが多いじゃないですか。でも長男は小学生5年生のときに母親と離れてしまっているので、彼のなかでは幼い頃の呼び方である「マミー」が残り続けていて。

僕と話すときは「母」と呼ぶんですが、健治さん(林眞須美の夫)といるときは「マミー元気だった?」と話すんです。彼ら2人だけの秘めたる呼び方のようで。その言葉は世間が眞須美さんに向ける先入観とはまったく異なる印象で、そちらのほうが彼女の本質に近いのではないかと感じたんです。それで眞須美さんの違った一面を見せる象徴的な言葉として、『マミー』という言葉を本作のタイトルに選びました。

獄中からの訴訟に意図を感じるように
―劇中ではこの事件についてさまざまなリサーチや取材が行なわれていますが、最初はどのようなことから着手していきましたか?

二村:最初は判決文を読むところから始めました。ただ僕は大手メディアや記者クラブには所属していないフリーランスなので、裁判所から判決文を簡単には手に入れられなくて。代わりに裁判の判決文が載った雑誌を読んで、そこに載っている方々に取材を行なっていきました。

眞須美さんは、ご自身が「間違っている」と判断した情報を流布した出版社や人に対し、次々と民事訴訟を起こしているんです。その裁判の証拠として当時の判決文や鑑定書、供述調書などを提出していて、なかには刑事事件であるがゆえにそれまで見られなかった資料もあるんですが、民事裁判の証拠として提出されたことで裁判期間内は閲覧が可能になります。彼女はいろんな方面に訴訟を起こしているので、そこから訴訟相手に関する情報がどんどん出てきたんですよ。

裁判の多くは負けてはいるんですが、徐々に「眞須美さんは意図的に訴訟しているんだな」と感じるようになっていきました。おそらく彼女は自分の主張が正しいと世の中に知ってもらうために、これまで世に出てこなかった資料を白日のもとに晒そうとしているのではないかと思いました。

僕は眞須美さんと会ったこともないし、長男を介して言葉を交わすこともしていませんが、唯一彼女とコミュニケーションを取っているように感じたのが裁判資料だったので、それは大事にしていきたいなと思いながら進めていきました。

―被写体の方々にはどのような説明および出演への交渉を行ないましたか?

二村:今回の取材対象となった皆さんには、まず最初に手紙をお送りしました。そこに必ず記載したのは「私は冤罪かどうか判断できない立場ですが、裁判の結果に疑問の声が上がっていることから事件をイチから検証したい」ということ。決して冤罪だから潔白を証明したいということではなく、フラットに検証するというスタンスをお伝えして、取材を進めていきました。

―撮影を行なううえで、長男との距離感はどのように意識されたのでしょうか。

二村:取材を始めるときに僕がまず長男に伝えたのは、「あなたは死刑囚の息子として波乱万丈の人生を送ってきたと思いますが、今回そのことには触れません。事件の目撃者の一人としてお話を聞かせてください」ということです。もちろん彼の境遇に対して思うところはあるのですが、取材のなかではそこは問いませんでした。この事件をフラットに最初から検証したいという立場だったので、長男も、健治さんも、ほかの方々も皆同じ証言者というスタンスで取材をしていきました。

これまでも長男はテレビ局や新聞の取材を受けることはあったんですね。そこで彼は必ず冤罪の可能性や自分の目撃証言を話すんですが、その部分は使われないんですよ。あくまで焦点を当てられるのは、死刑囚の息子として過酷な人生を歩んできた男の物語なんです。それを取り上げることにも意味はあると思うんですが、伝えたいことが使われない不満を長男は抱いていたんですよね。そういった経緯もあり、僕は彼が歩んできた人生という面にはフォーカスしませんでした。

―長男と健治さんの印象はいかがでしたか?

二村:健治さんは作品に映っているままですね。取材中もサービス精神満点でいろいろ話そうとしてくれたり、逆に東京から取材に来たのにこんな話でよかったのかなと反省していたり……。とても気を遣い、人を楽しませるのが好きな人です。だから劇中で健治さんが話す内容は既に世に出ているものが多いんですよ。

でもそれがメディアで使われるときは、情報の取り上げ方が恣意的だったり一面的だったりするんですよね。健治さんは、自分自身でヒ素を飲んだこと、つまり裁判で認定されている眞須美さんにヒ素を盛られた被害者だということを否定しているにも関わらず、そこは検証されない。こんな詐欺をしたという面白おかしい暴露話として取り上げられるばかりで、そこは彼も納得していないようです。

長男は実際にお会いするとお話好きで、映画の考察について語ったりすることが好きな、すごく誠実な青年ですね。

―長男がお話好きというのは意外ですね。

二村:長男も本当はもっと明け透けに語りたいこともあると思うのですが、彼はこれまで、自身が母親の冤罪の可能性を表明することで起きるハレーションを見てきているので、自身の立場や発言に対し非常に自覚的なんですよ。だから自身の意見を明確に表明しつつも、伝わり方を気にして普段はかなりマイルドに発言している印象があります。

冤罪の可能性に触れづらい空気がある
―「映画.com」の対談記事で、是枝裕和監督と想田和弘監督がドキュメンタリーを撮る者が背負う「被写体への責任」についてお話されていましたね。今回、映画公開を目前にしたタイミングで長男に誹謗中傷が向けられました。そこであらためてドキュメンタリーの暴力性と被写体への責任を考える契機となったのですが、その点について二村監督はどう考えられますか?

二村:長男が誹謗中傷を受けたことについては、いまでも何ができたんだろうかと考え続けています。「digTV」で公開したり、長男が発信してきた情報と大きく異なる内容を作中で出していたりするわけではないという認識ではあるのですが、それを映画にしたときの影響を甘く見積もっていました。

本作が長男に焦点を当てていることは事実ですが、あくまで事件を検証することが目的であって、林家の主張だけを取り上げた作品ではないことは観てもらえればわかると思うんですよ。ただ公開前に情報が一人歩きしてしまったことは想定しきれていませんでしたし、そこはもっと配慮すべき点だったと思います。

ただドキュメンタリーは撮る、撮られる関係性のなかでできるものなので、片側が責任すべてを負うことは難しいとも考えていて。「すべてこちらで何とかする」と言えば嘘になるので、そこは被写体の方と、リスクも含めお互いに納得をしたなかで進めていくのがドキュメンタリーのあるべき姿ではないかなと思います。

―先の対談記事で、両監督がドキュメンタリーで一番大事にしているのは「現場で何を発見するか」ということだと語っていたのですが、二村監督が本作を撮影していくなかでの一番の発見は何でしたか?

二村:眞須美さんが冤罪である可能性を語ることの、社会的意義の大きさが何よりの発見でした。取材現場で会う記者やメディアの方々は、科学鑑定や目撃証言の矛盾や問題点など僕と同じ情報を持っているのに、それを世に出そうとはしないんですよ。

世の中に冤罪の可能性に触れてはいけない空気があることにだんだんと気づき始めて、それがこの事件を26年も塩漬けにしているのではないかと思うようになりました。冤罪の可能性を語る意義に気づけたことは、この映画がどういう意味や影響を持つかを考えるきっかけにもなりましたね。

二村:取材で会った若い記者の方々から聞いたんですが、この事件の冤罪の可能性を検証したいと社内で訴えても上からストップがかかるそうです。なぜなら、当時現場で事件を取材していた記者が現在偉い役職に就いているから。いわばその人たちがやってきた仕事を否定することになるので通らないと話していました。

この映画の試写に来てくれた新聞社やテレビ局関係者のなかにも冤罪の可能性が高いと感じている方はいました。ただそれを表明するためには、並々ならぬ覚悟が必要となります。

逮捕前から林眞須美が犯人だと決めつける報道が延々と繰り返されていたので、自分たちの行ないを批判し、検証するためには相当な労力を要しますし、検証したとしても過ちの責任はどう取るのかという話になりますよね。そういったことを避けるため、あえて触れないのではないかと思います。もちろん冤罪と考えていないので検証しない、という立場の人もいるでしょう。

―『マミー』に対するSNSでの反応を見ていると、「自分は冤罪だと思っていた」と言う人もいます。

二村:むしろこれまでSNSでは冤罪側に寄り過ぎているとも感じていて。世間では眞須美さんの冤罪の可能性を話しても、「何言ってるんだ?」という反応が大半なんですよ。劇中、和歌山駅で「林眞須美さんを支援する会」に絡む男性がいましたが、考え方としてはあれが一般的かなと。

―劇中で当時事件を担当していたジャーナリストが、事件を客観的に見られないからいま再びこの事件を扱うことは意味がないと話していました。当時事件を取り上げていたメディアがいますべきことは何だと思いますか?

二村:やはり真摯に検証してもらうことに尽きます。例えば眞須美さんの死刑が執行された途端に事件の検証が始まることは容易に想像がつくんです。そういった事例はこれまでもありますが、そうならないように一刻も早く取り組んでもらいたいなと。

僕もテレビの人間としてこの事件を扱うハードルの高さは認識しつつも、検証しようとする人が少しでも現れてくれれば何か変わるんじゃないかなと考えていて。それは別に冤罪前提である必要はなくて、事実として出ている内容を扱ってくれれば良いと思うんです。新聞社やテレビ局には僕が手に入れられない事件当時の膨大な資料やインタビュー映像もあるはずなので、そういったものを用いてぜひ検証してほしいですね。

固定化されたイメージは真実に直結しているのか
―前半は目撃証言や科学鑑定への客観的な反証が主でしたが、後半に進むにつれだんだんと冤罪を証明したいという監督の主体的な意志が伝わってくる構成になっていましたね。その構成はどのように決めていったのでしょうか?

二村:本作は、世間の皆さんがこの事件に抱く先入観や当時の記憶を支点にしています。それが強固であるほど大きく裏切られていくという、僕自身が取材のなかで感じた驚きや発見を追体験していくような映画にできないかなと考えました。なので序盤には事件に対する世間の印象や、当時の記憶を思い出す映像を入れ、それを一つひとつ丁寧に覆していくことで徐々に冤罪の可能性を感じられるように意識しています。

ただ林家の皆さんや弁護団の方々が26年間ずっと感じてきたことだと思うんですが、これだけ目撃証言や科学鑑定に綻びがあるにも関わらず、何も動かない現状に僕はだんだん苛立ち始めてしまって。そして、この事件を動かすために決定的なものを出さなくてはいけないと次第に追い込まれていくんですよね。それが最後の選択にもつながっているんですが。そんな部分も含め追体験してもらえるような構成になればと思い、作っていきました。

―当時、林家に居候していて眞須美さんにヒ素を飲まされたと証言した元同居人の家に、長男と健治さんが訪問する場面は壮絶でしたね。あの場面はどのような経緯で撮影するに至ったのでしょうか。

二村:健治さんが「あいつは保険金詐欺を共謀した仲間だけど、裁判ではヒ素を盛られた被害者の立場になっている」と元同居人について語っていて。僕が「許せないですね」と返すと、同意しつつも「ただあいつも大変だったやろうし、憎めんのや」と言うんです。眞須美さんの有罪判決にも影響を与えた元同居人に怒りをぶつけてもいいのに、そうではない同情の気持ちを吐露したりして。

健治さんはきっと、当時、元同居人とともに過ごした楽しい時間は嘘じゃなかったと信じたいんですよね。そこで「元同居人を糾弾するのではなく、会って当時のことを聞いてみませんか?」と僕から提案しました。

僕はあの再会を近くで見ていたんですが、健治さんの思いとは別に、重要な証言が取れるのではないかと考えていたんです。「供述は強制されたものだ」という言葉が得られれば再審につながるかもという気持ちでいたから、撮り終わった時点では凄いものが撮れた感覚はなくて。ただあとから映像を見返したときに、何も証拠は得られなかったけど、彼らの関係性を示すとても大きなものが映っているなと気づきました。それを発見したときは感動しましたね。

―終盤には二村監督が取材の一線を超えてしまう様子も映し出されていました。あの行動には批判も上がると思うのですが、包み隠さず作中に入れたのはどのような思いからなのでしょうか。

二村:この事件において、メディアの在り方というのは非常に重要視されていると思うんです。僕も取材中はメディアスクラムを発生させ、冤罪の可能性も報じない既存のメディアに対して常に批判的な態度でいました。

でも自分が事件の取材をするうちに、気づけば同じ過ちを犯してしまっていたんです。映画のなかでメディアを批判する以上は自分の行ないも非難を受けるべきだし、過ちを隠して事件を検証したことだけ伝えるのはフェアではないですよね。僕がやったことで映画の信頼性が失われることも覚悟のうえですが、そこを隠すことは正しくないと考えたので、それも込みで観客の皆さんに判断してもらえればと思います。

―ドキュメンタリーを論じるうえでよく語られるテーマに「ドキュメンタリー監督の倫理観」というものがありますが、この作品を撮り終えた現在、二村監督はそれについてどのように考えますか?

二村:法令遵守であることは最低限守るべきことですね。僕の場合は今回その法令遵守を踏み外してしまった訳ですが……。自身の行為に失望し、後悔し、いくら反省しても反省し終えることはありません。ただ過ちを犯したうえで、それをごまかしたり嘘をついたりしないことがドキュメンタリー作家としての倫理観だと思います。

―祭り会場の紙コップに付着していたヒ素と、林家にあったヒ素が同一という鑑定は誤りだとして、3回目の再審請求を和歌山地裁が受理したと今年の2月に報道されました。今後死刑判決を覆すのに求められることは何だと思いますか?

二村:ひとつは世論ですよね。再審事件はどれほど冤罪性が顕著でも、マスコミや世論に注目されなければ裁判所が本気にならない、といわれています。袴田事件など、再審が決定したほかの事件でも世論の盛り上がりがあと押しになったケースがあるので、この映画がそこに寄与することができれば良いなと思っています。

―この映画を通じて観客に何を受け取ってほしいですか?

二村:それぞれ、自分のなかに事件に対して持っているイメージがあると思います。でも事実を一つひとつ積み重ねた先に見えてくるものが、いかに固定化されたイメージと異なるかを感じてもらえたら嬉しいです。

インタビュー・テキスト by ISO / 編集 by 服部桃子

解説

1998年に日本中を騒然とさせた和歌山毒物カレー事件を多角的に検証したドキュメンタリー。

1998年7月、夏祭りで提供されたカレーに猛毒のヒ素が混入し、67人がヒ素中毒を発症、小学生を含む4人が死亡する事件が起こった。犯人と目されたのは近所に住む林眞須美で、凄惨な事件にマスコミ取材は過熱を極めた。彼女は容疑を否認しており、2009年に最高裁で死刑が確定した後も獄中から無実を訴え続けている。

最高裁判決に異議を唱える本作では、当時の目撃証言や科学鑑定への反証を試み、保険金詐欺事件との関係を読み解いていく。さらに、眞須美の夫・健治が自ら働いた保険金詐欺の実態を語り、確定死刑囚の息子として生きてきた浩次(仮名)が、母の無実を信じるようになった胸の内を明かす。

監督は、「不登校がやってきた」シリーズなどテレビのドキュメンタリー番組を中心に手がけてきた二村真弘( 映画.com)。

2024年製作/119分/日本
配給:東風
劇場公開日:2024年8月3日

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