「沖縄離れ」進む自民 米兵性暴力で政府への苦言なし【解説委員室から】(2024年8月11日『時事通信』)

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沖縄復帰記念式典であいさつする山中貞則総理府総務長官兼沖縄開発庁長官(右)=1972年5月、那覇市
 
 沖縄県で発生した米兵による少女への暴行事件が県側に伝えられていなかったことについて、自民党の実力者からは、政府に苦言を呈する声は聞かれない。太平洋戦争で唯一地上戦が展開された史実を踏まえ、政治家人生を懸けて、沖縄を巡る諸問題に取り組んだ実力者が2000年代初頭まではいた。当時と比べ、自民党政治家の「沖縄離れ」は鮮明だ。(時事通信解説委員長 高橋正光)
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守礼門前で行われた2000円札発行記念式典
 ◇官邸に報告、県には伝えず
 事件が起きたのは昨年12月。米兵は不同意性交罪などで起訴された。外務省は首相官邸には報告したものの、県や防衛省には連絡せず。今年6月になり、メディアが報じたことで事件が表明化した。
 これをきっかけに、今年5月にも米兵による性暴力事件があり、外務省が同様に、県に伝えていなかったことも明らかになった。
 こうした政府の対応に玉城デニー知事は激しく反発したが、上川陽子外相は7月30日の参院外交・防衛委員会の閉会中審査で「問題があったとは考えていない」と強調。県に伝えなかった理由を「被害者のプライバシー」などと説明した。
 もっとも、6月16日には沖縄県議選が行われており、政界では「選挙へのマイナス材料と考え、政権の判断として伝えなかったのだろう」(野党関係者)との見方が消えない。
 県議選の結果、自民、公明両党は16年ぶりに多数派となり、2年後の知事選での県政奪還に向け、足場を築くことになった。
 ◇初代開発庁長官、山中貞則
 来年の8月15日で終戦から80年。かつては、自身の戦争体験などから沖縄に思いを寄せ、基地負担の軽減や経済振興などに懸命に取り組んだ実力者が自民党に複数いた。その一人が、山中貞則通産相1921年7月―2004年2月)だ。
 山中氏は、鹿児島県末吉村(現曽於市)出身。台湾国民学校の教師を経て、戦時中は中国大陸を転戦。復員後、鹿児島県議を経て、53年の衆院選で初当選し、当選17回を重ねた(在職47年9カ月)。この間、佐藤栄作内閣で70年、沖縄の復帰問題を担当する総理府総務長官で初入閣し、72年の返還に伴い初代の沖縄開発庁長官に就任した。
 曽於市の「山中貞則顕彰館」の資料によると、山中氏は政治家を目指すに当たり、「戦没者に対し、生き延びている事に申し開きのできる人生を歩む」と誓ったという。
 戦時中、鹿児島県内には鹿屋(海軍)や知覧(陸軍)などの航空基地があり、多くの特攻隊員が沖縄に向けて出撃している。山中氏が沖縄振興を政治家としてのライフワークにしたのは、こうした地域事情もあっただろう。同時に、「政治の師」でもある当時の佐藤首相が「沖縄返還」を政権の重要課題に掲げたことも一因のようだ。
 山中氏は、沖縄の課題は一律ではなく、島ごとに異なると痛感。直接話を聞くため、48の有人離島を全て回り、683本の沖縄関連の特例法の制定や改正に関わった。名誉県民に唯一選ばれ、県内には、通称「やまなか通り」がある。
 山中氏は自民党税制調査会長として、消費税スタート時の税率を3%にする方針を決めるなど、「税調のドン」としても知られる。山中氏が税制のプロになったきっかけは、佐藤蔵相の下で大蔵政務次官となり、佐藤氏から税制を学ぶようアドバイスされたこと。佐藤氏抜きで、山中氏は語れない。
「死に場所」に決めた梶山元官房長官
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東京・霞が関の外務省
 「政治家としての死に場所を得た」。96年1月に発足した橋本龍太郎内閣で官房長官に就いた梶山静六氏(1926年3月―2000年6月)は、同年11月の第2次橋本内閣の発足に当たり、志願して「沖縄問題担当」を兼務すると、政治家人生の集大成として基地問題に取り組んだ。 
 村山富市政権時の95年に米兵による少女暴行事件が起きると、県内で反基地運動が広がった。現状を憂慮した橋本氏は首相就任直後の96年2月、米サンタモニカでのクリントン大統領との初の首脳会談で、「世界一危険な基地」と言われる米軍普天間飛行場の返還をいきなり提起した。県の要望を事前に聞いた上での、政治決断だ。 
 そして、日米両政府は同年4月、「5~7年」での返還で合意した。梶山氏が、沖縄を「死に場所」と口にしたのはこの頃だ。
  梶山氏が取り組んだのは、戦略的価値が低下した米軍施設・区域の返還を含む地元の負担軽減と、基地負担に見合う大胆な経済振興などだ。
  梶山氏の尽力もあり、米軍基地の整理・縮小を協議する日米特別行動委員会(SACO)が同年12月に最終報告をまとめ、返還や騒音軽減などで合意した。
  経済振興に関しては、梶山氏は同年8月、私的懇談会(通称・島田懇談会)を設置し、沖縄の経済界や労働界、メディアのトップらをメンバーに起用。地元の要望を直接聞き、11月に提言を受け取ると、これを基に事業化を進めた。
  この過程で、梶山氏がしばしば怒りを募らせたのが外務省だ。基地の反対運動が起きると矢面に立つのは当時の防衛施設庁。外務省については、県や市町村などとの連絡・調整など地元の理解を得る努力を防衛施設庁に任せ、汗をかいていないように感じた。
  梶山氏は、外務省幹部らを「タキシードに蝶ネクタイを締め、ワイン片手にダンスを踊るのが仕事だと考えているのが外務省」などと面罵した。外交官として、パーティーなど社交の場には好んで出席するが、地元対策など難しい仕事を積極的には引き受けようとしない姿を、痛烈に皮肉った言葉だ。  叱責されることを恐れて官房長官室に寄り付かず、梶山氏への報告を秘書官に任せる幹部もいた。 
 懇談会のメンバーだった稲嶺恵一氏はその後、自民党の支援を得て知事選に出馬し勝利。梶山氏が死去すると、知事として追悼文を寄せ「時には会議終了後、車座になりグラスを傾けながら、いつまでも沖縄側の発言にじっと耳を傾けておられた。その真摯(しんし)なお姿に感動さえ覚えた」としのんだ。
  梶山氏は陸軍士官学校出身で、中国大陸で飛行訓練中に終戦を迎えた。がんで死去する前年の99年には、夫人とともに鹿児島県南九州市の「知覧特攻平和会館」を訪れ、特攻隊員の遺影や遺書などを目にしている。戦後を生きた政治家として、先に逝った戦友に対し、「死に場所」に決めた沖縄に尽くしたことを報告しただろう。
 
サミット開催、小渕元首相
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小渕優子氏(左)と梶山弘志
 98年7月の自民党総裁選で梶山氏らに勝利して首相に就任した小渕恵三氏も、沖縄への思い入れが強かった政治家として知られる。その象徴が、00年の主要国首脳会議(サミット)の開催地を沖縄に決めたことだ。
  小渕氏は早稲田大学在学中に沖縄の復帰運動に参加。卒業後、米施政下の沖縄から世界漫遊の旅に出るなど、政治家になる前から接点があった。そして、小渕氏はサミット開催地について、過去3回東京で行っていることから、「地方開催」を前提に選定を進めた。
  米軍による事件、事故が起きた場合の悪影響や警備上の問題などから、外務省や警察庁は沖縄での開催に消極的だったが、小渕氏は99年4月、慎重論を押し切り、沖縄を選んだ。サミットに合わせて、「守礼門」が描かれた2千円札の発行も決めた。
  当時を知る警察庁OBによると、沖縄開催を決断した小渕氏は、野中広務官房長官を通じて、田中節夫警察庁長官に「警備で苦労をかけるが、費用を含めてあらゆる負担に応じる」と伝えたという。
  小渕氏はサミットの2カ月前に脳梗塞で死去。ホスト役は後継首相の森喜朗氏が務めた。名護市内のホテルで開かれた歓迎レセプションに招かれた小渕氏の千鶴子夫人は、クリントン米大統領シラク仏大統領ら各国首脳を前に、涙を流した。  山中、梶山、小渕の3氏のほかにも、就任後最初の首脳会談で普天間返還を切り出し、基地問題を梶山氏に全面的に委ねた橋本元首相。小渕氏の決断を官房長官として後押しした野中氏も、沖縄の立場に理解を示し、諸問題に尽力した「沖縄族」議員に挙げられよう。 
 ◇「沖縄族」育たず 
 梶山氏の長男・弘志氏は、地方創生相、経産相などを経て幹事長代行。小渕氏の次女・優子氏は、少子化対策相、経産相などを歴任し選対委員長。それぞれ党の要職にある。
  弘志氏はエネルギーや港運関連の政策などに詳しく、沖縄との接点は少なそう。一方、優子氏は党沖縄振興調査会長をかつて務めており、沖縄への思い入れはあるとみられる。
  優子氏は党の選挙責任者として、沖縄県議選で現地入りし、自民党候補への支持を訴えた。その効果もあり、自民党議席を伸ばし、公明党と合わせて過半数を確保した。その直後に判明したのが米兵による少女らへの暴行事件だ。
  しかし、優子氏が地元の反発を受け止め、外務省に苦言を呈した形跡はない。外務省などの慎重論を押し切って、沖縄でのサミット開催を決断した父・恵三氏とは対照的。優子氏を含め、沖縄の問題をライフワークとし、忖度(そんたく)せずに政府にものを言う実力者「沖縄族」が育っていないのが、実情だ。 
 自民、公明両党を除く「オール沖縄」の支援を受ける玉城知事は、普天間飛行場の名護市辺野古への移設にあらゆる手段で抵抗し、岸田文雄内閣と厳しく対立する。そうであっても、国内の米軍基地の7割以上が沖縄県に集中し、戦後の日本の安全保障に貢献してきたことは紛れもない事実だ。梶山氏が沖縄を「死に場所」と決めた当時の太田昌秀知事は革新系だ。  事件を受けた岸田政権や外務省の対応、自民党内の反応について、山中、梶山、小渕の各氏が存命だったら、どういう言葉を発するだろうか?