失敗の気配濃厚な大阪・関西万博…その「原点」にいた男・堺屋太一が語っていた「70年万博への執着」(2024年8月6日『現代ビジネス』)

2025年大阪・関西万博は、橋下徹大阪市長松井一郎大阪府知事、それに橋下氏を政界入りさせ、後見人的存在だった堺屋太一大阪府市特別顧問(2019年2月死去。肩書はいずれも当時)の3人が大阪・北浜の寿司屋で交わした会話から始まっている。2020年東京オリンピックの開催が決まった2013年のこと

【写真】大阪万博で設計を担当する「一級建築士」の告白

「東京が二度目の五輪なら大阪は二度目の万博だ」「大阪の成長のために世界的イベントが必要だ」と熱弁を振るう堺屋の提案を橋下・松井が受け入れ、翌年に誘致を表明したという話を両氏とも著書に記している。

堺屋は旧通産省の若手官僚だった当時に1970年大阪万博を担当し、その経験を生涯語り続けた。彼は70年万博をどう総括し、大阪で二度目の万博に何を託そうとしたのか。14年前の取材に語っていた言葉を『大阪・関西万博「失敗」の本質』(ちくま新書)から見てみよう。

「万博に取りつかれた男」との空疎な質疑

【写真】大阪万博で設計を担当する「一級建築士」の告白

「東京が二度目の五輪なら大阪は二度目の万博だ」「大阪の成長のために世界的イベントが必要だ」と熱弁を振るう堺屋の提案を橋下・松井が受け入れ、翌年に誘致を表明したという話を両氏とも著書に記している。

堺屋は旧通産省の若手官僚だった当時に1970年大阪万博を担当し、その経験を生涯語り続けた。彼は70年万博をどう総括し、大阪で二度目の万博に何を託そうとしたのか。14年前の取材に語っていた言葉を『大阪・関西万博「失敗」の本質』(ちくま新書)から見てみよう。

実はこうした疑問を堺屋に直接ぶつけたことがある。

2010年3月13日、大阪万博40周年の記念式典が行われた万博記念公園でのことだ。

式典挨拶で堺屋は「25歳からずっと万国博覧会に取りつかれた人生」だと自己紹介し、「1970年の大阪万博、90年の花博、できればもう一度、この大阪で博覧会が開かれてほしい。最近の日本は元気がなく、冒険的なことをしなくなっているから」と述べた。そして、かつてのパビリオン「鉄鋼館」を改修した「EXPO‘70パビリオン」を内覧した後、私を含む報道陣の取材に応じた。

当時の録音から、私自身が行った質疑をいくつか抜き出してみる。

──40年経って、大阪万博は何を残せたと思っておられますか。

大阪万博で活躍した人たちが20世紀の間、日本の文化をすべてリードしましたね。建築でもファッションでも光の芸術でも、日本のトップを占めた人は全員、万博出身。私がお願いした時、磯崎新さんも、黒川紀章さんも、コシノジュンコさんも、石井幹子さんも、全員30代です。今、30代の人にこんな大きな行事を任せることは絶対ないですよね。当時はそれを大胆にやったし、できた」

──当時は高度成長期ですが、今は成熟社会と言われる中で40年前の考え方や手法が通用すると思われますか

「はい、はっきり通用すると思います。ただ、それに命を懸ける若者がいなくなっただけです。今、私は上海万国博覧会をやっていますが、1984年から26年かけてこれを実現させました。そういう気迫を日本の若い人がこれから持ってほしいと思います。特にこの関西の人には。今は衰退してますけども、かつて大阪の人たちがこれだけのものをね、世界を驚かせるものを作ったということを思い出して頑張ってほしいですね」

これには少し説明が必要だろう。先述した堺屋の著書によれば、84年に初めて中国を訪問した際、副首相や上海市長に万博開催を提案したという。89年の天安門事件の影響で一度は頓挫したが、26年越しに実現し、堺屋は「最初の提案者」として外国人特別顧問に任命された。

一方で、日本企業が合同出展した「日本産業館」の代表も務めた。上海万博は、この会見の1カ月半後に開幕。それまでの最高記録だった大阪万博の入場者数6422万人を上回り、7300万人を記録した。

続けて別の記者が70年万博のテーマ「人類の進歩と調和」について聞いたが、堺屋はそれには直接答えず、「あの時、本当に見せたかったのは、近代工業国家になり規格大量生産ができるようになった日本だった」「一番重要なことは、当時のお金で192億円儲かったことだ」と語った。

そして、次に万博をやるなら「工業国家を卒業して知恵の時代、『知価社会』になった日本を表現できたらいい」と言い、「中国やアジア諸国に追いつかれる中、近代工業社会のその先を見せるべきだ」と主張した。

これを受けて、また私は尋ねた。

──人口減少し、高齢化が一層進む日本に、今の中国のような経済成長や消費社会の再来は望めないと思うのですが、これからの日本社会が目指すべき目標やイメージをどうお考えですか。

「日本の消費社会はこれから猛烈に発展する可能性があります。それは何かというと、高齢者が楽しみと誇りを持って生きられる社会、老を好む「好老社会」を作ることなんですね。今の日本で高齢者と言えば福祉や介護や医療などマイナスのイメージが多いですが、高齢者の経験とパワー、そしてお金ですね。時間持ち、知恵持ち、お金持ちの高齢者がいかに誇りを持って暮らせるか。そういう社会を作らなきゃいけない。世界中から、豊かな高齢者が引退するなら日本が一番いいと言われるよう、全力を挙げるべきなんです。

ところが役所は、70年万博当時の規格大量生産の発想から一歩も出ていません。私も閣僚として、ずいぶん改革に努力しましたが、役人がついてきてくれない。70年万博は、中進国だった日本を先進工業国へと概念を飛躍させたんです。70年代の石油ショックにも80年代の円高にもめげず、日本が発展できた原点です。それが90年代のバブルで変わった。その後、知恵が出てきていません」

──万博以降、新しい発想が出ていない、と。

「万博の発想が20年間持ったけれども、その後が出てきていない。それを引き出すような行事がなかったと思いますね」

*

どうだろう。時代と社会を論じる評論や未来予測小説を多数発表してきた作家らしく、「知価社会」「好老社会」という造語を交えて語ってはいるものの、私にはなんら響く所がなかった。過去の成功体験を過度に美化し、その再来を願う言葉は空疎で抽象的で、理念や必然性も感じられない。所詮は堺屋個人の夢物語に終わるのだろうと考えて、この会見をどこに書くこともなかった。

今回14年ぶりに録音を聞き返して感じたのは、この空疎さ、理念や必然性の乏しさが埋まらないまま、維新一強という大阪の政治状況により、茫洋とした夢物語がなんとなく現実化してしまったということだ。堺屋が口にした「好老社会」なる未来像は、大阪府が誘致検討段階で掲げたテーマ「人類の健康・長寿への挑戦」の下敷きになったようにも思える。

橋下と松井が書いているように、堺屋との三者会談から本当に万博誘致が始まったのだとすれば、彼らの空疎な夢と政治的思惑に大阪が、政府が、日本国民が付き合わされているだけという感がぬぐえない。

松本 創(ノンフィクション・ライター)