法医学者が告発する、ニッポンの“暗黒裁判”の信じがたい実情「科学鑑定はまったく無視された」(2024年7月13日『文春オンライン』)

 日本は法治国家だ。裁判は法と正義にのっとり公正に行われる。判決は事実に基づき結論が出される。……そう信じている方にぜひこの番組をオススメしたい。いかに非合理でご都合主義の“暗黒裁判”がまかり通っているのか、強い衝撃を受けるだろう。
(文中敬称略)
「裁判では科学が都合よく編集されてしまう」
キャプチャ
法医学者・岩瀬博太郎氏(NHKスペシャル『法医学者たちの告白』より) ©NHK・VOZ
 6月30日に放送されたNHKスペシャル『法医学者たちの告白』。犯罪の疑いがある遺体を解剖し死因を調べる法医学者たちが、捜査や裁判の矛盾を告白、というより“告発”している。
 核になるのは2005年、栃木県旧今市市(現日光市)で小学1年の女児が行方不明になり、翌日茨城県内の山林で遺体が見つかった「今市事件」だ。事件から9年後に逮捕された勝又拓哉は裁判で「自白を強要された」と無実を訴えた。「遺体の発見現場付近で女児を刺殺した」という自白の信用性が争点になった。
 検察は、警察が撮影した現場写真に血液反応を示すとされるルミノール反応が多数見られることから大量の血痕があると主張。しかし、検察に証言を求められた千葉大学法医学教授の岩瀬博太郎は、ルミノールは鉄分さえあれば反応を示すことを前提に慎重な言い回しをした。
「ルミノール反応が本当に血液に反応してるかは問題がありますが、血液だとすれば、それなりに広い範囲に血が落ちてるという印象は受けます」
 つまり「これは本当に血液なのか?」と留保を付けたのだが、裁判所は「大量の血痕がある」と解釈して無期懲役の判決に。岩瀬は「裁判では科学が都合よく編集されてしまう」と嘆く。
「日本の裁判って外国から見たら中世並み」
 二審で弁護側の依頼を受けた元東大法医学教授の吉田謙一は、現場の落ち葉の鉄分にルミノールが反応することを実証。一審判決に矛盾があることを立証した。ところが、裁判長は「訴因変更」という手続きで、殺害場所について当初の主張を変更するよう検察に促した。殺害場所は「遺体発見現場付近」から「栃木県か茨城県かその周辺」と大幅に広げられた。その上で判決は、殺害現場についての自白はうそだった疑いがあるとしながら、殺害を認めた部分は信用できるという理屈で、再び無期懲役に。吉田は憤る。
「裁判は事実認定の場だということをほとんど無視している。日本の裁判って外国から見たら中世並みとか“暗黒裁判”って言われるけど、まさにそう。科学鑑定はまったく無視された」
 仕事上、捜査機関との関係が深い法医学者たちから、これほど強い裁判批判の言葉を聞き出したのは、NHKディレクターの木寺一孝。司法の課題を扱うのはこの番組が初めてではない。
 2年前、『正義の行方』という番組が高い評価を受け、映画にもなった。1992年、福岡で女児2人が殺害された「飯塚事件」が舞台だ。無実を訴え続けた久間三千年(くま・みちとし)の死刑判決が確定し執行された後、当時の報道が警察寄りに偏っていたのではないかと新聞社が自ら検証する姿を描いている。
「死刑にしてしまっているから、裁判所は判断から逃げている」
 死刑になった久間の遺族は、無実の可能性を示す2人の新証言を得て再審を請求した。しかし福岡地裁は今年6月5日、新証言は「信用できない」として請求を退けた。その現場には木寺と撮影クルーの姿もあった。
「証言の中身に踏み込まずに門前払いした印象が強いです。死刑にしてしまっているから、裁判所は判断から逃げている」
 その上で、報道が果たすべき役割を強調した。
「裁判についても正しいかどうか批評することが当たり前にならなきゃいけない。そこをしっかりやれば市民にも問題が伝わると思います」
法医学の結論が有罪を導くのに都合よく曲げられたという疑念」
 Nスぺ『法医学者たちの告白』は、まさにそれを実践するものだった。私は映画の記事執筆に際しても木寺に話を聴いていたが、改めて取材を申し込んだ。
――Nスペも映画『正義の行方』と同じで背景にえん罪がありますね。でも今回は法医学からアプローチしたのはなぜでしょう?
「そもそも個別の事件がえん罪だと訴える番組ではありません。日本の裁判自体がおかしいんじゃないかという問題意識から始まっています。例えば飯塚事件はDNA型鑑定や死亡推定時刻など、法医学の結論が有罪を導くのに都合よく曲げられたという疑念があります。科学ってそんなに曖昧な使い方をされるのかと。それが裁判でえん罪を生む土壌になっているかもしれない。その可能性を描くために今度は今市事件を選びました」
――なぜ今市事件に?
「裁判官が訴因変更を持ち出して、法医学者に対し梯子を外す。証拠の扱いがひどすぎる。法医学をテーマにした番組を作るのに一番ポイントがそろっていたからです」
――この番組を観ると私個人は、今市事件はやはりえん罪だろうと強く感じます。同時に、自白の矛盾にとどまらず、より直接的に無実を示す証拠があればいいのにと感じますが。
「今市事件でもDNA型の鑑定は行われているんです。遺体の頭部についていたガムテープから何人かのDNAが出た。ただ、それは実は捜査員のものが混入しちゃってたんですね。勝又さんのDNAは出ていない。ところがそれとは別のDNAがあるというんです」
――それは真犯人がほかにいることを強くうかがわせる事実ですよね。
「その可能性も否定できません。でもこれは捜査員のDNAの混入があることを大きな理由として、裁判では法医学者の見解を排斥しています。DNAの再鑑定を行うなど、もっと科学的な証拠と向き合うことが必要だったのでは。これも科学の扱いが軽視される日本の裁判制度の矛盾ですよね」
映画化の話はある?
 番組を観ながら私は一つ気になることがあった。映画『正義の行方』は全編ナレーションを使わず、実際に記録された音声や字幕スーパーなどを使って状況を説明する「ノーナレ」という手法で制作されている。これが作品を観ながらストーリーに入り込んでいく緊張感とドライブ感を生んでいた。ところが、今回のNスペはノーナレではなく通常通りのナレーションがつかわれている。
「これは尺(長さ)の問題ですね。ある程度長い時間がないとノーナレで構成するのは難しい。『正義の行方』は158分。今回のNスぺは59分です。通常は49分ですから、これでも無理して『サンデースポーツ』を後ろにずらして10分足してくれたんですけど、それでも伝えたい情報の複雑さからしてノーナレは無理ですね。これも映画化できるんならノーナレを探りたいと思います」
――映画化の話はある?
「私はやりたいですけど、こればっかりは後押ししてくれる方が映画界に現れないと」
この国の裁判(justice)に正義(justice)はない
――法医学者の告白を通してえん罪を描くという、これまでにない斬新な手法ですから、映画になったらさらに興味深いでしょうし観てみたいですね。
「『正義の行方』では警察、弁護団、報道機関、それぞれの立場をバランスよく伝えました。一方、今回のNスペは法医学者の苦悩を通してではありますけど、裁判批判というか、物申す的なニュアンスが強いと思うんです。そこが映画としてどうかというところもあるでしょうね。でも私は特定の事件が無罪か有罪かを訴えたいわけではなくて、あくまで日本の裁判制度に問題があるということを伝えたい。番組でアメリカのケースを取り上げてますけど、アメリカが優れているというより、日本が遅れてるんです」
――では、次回作でもそこを掘り下げるんでしょうか?
「せっかく法医学の皆さんにリスクを背負って取材協力していただいたので、映画化もそうですけど、別の形でも何とか伝えていきたいです。続編を作るとか」
 NHKスペシャル『法医学者たちの告白』は7月13日(土)深夜(14日未明)0時50分から再放送される。その後は1週間、NHKプラスで見逃し配信されるから、ぜひご覧いただきたい。この国の裁判(justice)に正義(justice)はない、ということを実感するはずだ。えん罪は決して他人ごとではない。
 
相澤 冬樹