解体されることになった「グランドメゾン国立富士見通り」=東京都国立市
太宰治は昭和11年から13年にかけて、東京・杉並区の天沼という地区で転居を繰り返した。その頃に自室の窓から見たであろう景色を短編『富嶽百景』につづっている。「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい」と。
空気の澄んだ冬は、よく見えたらしい。その描かれ方は最高峰の偉容にほど遠い。「クリスマスの飾り菓子」「左のほうに、肩が傾いて心細く…」。精神的にかなり参っていた時期と聞く。寒々しい暮らしが、富士の姿をゆがめたのかもしれない。
地理学者の田代博さんによれば、JR山手線内だけで18の「富士見坂」があるという(『「富士見」の謎』祥伝社新書)。東京だけでなく、「富士見町」や「富士見台」の地名は、いまも各地に多く残っている。富士の眺めに対する人々の感度が、それだけ鋭かった証しである。
「百景」の今を物語る問題だろう。東京・国立市の「富士見通り」沿いに建った分譲マンションが来月の引き渡しを前に解体されるという。景観が損なわれるとして地元住民が計画の見直しを求め、「影響の検討が不十分」と事業者側が判断した。
山梨県での「富士山コンビニ」の騒ぎが示すように、霊峰は世界に隠れもない観光資源となった。とはいえ、高い建物が空をふさぐ眺めは人口過密の街が背負う宿命―とあきらめにも似た先入観を持つ人は小欄だけではあるまい。それゆえに、今回の結論には驚きを禁じ得ない。
相次ぐ開発により、東京都心の「富士見」は多くが名ばかりとなった。景観は誰のものか。この手の論争は、これからも各地で続くだろう。富嶽を借景とする街で事業者側の決めた「解体」が、上へ上へと背を伸ばす開発のあり方に一石を投じたのは疑いない。